歴史都市京都の町並み
☆町並の変化を理解するために不可欠な視点を、 3点挙げなさい。(200字程度)
1、観測者がその町並を記録するに至った経緯や記録するための手段を考慮する。2、街並みを比較するためにその記録がなされた時代や場所およびどの方向から切り取られた町並なのかを記録手段や写された建物や人間の恰好および山川など自然物に着目して絞り込み、特定の条件を揃えて他の条件の際に着目する。3、同じ時代を比較する際にその町並がどのような機能を有していたかを歴史や政治、経済などに注意して考える。
☆江戸時代の西陣が京都を代表する産業地域として発展した理由を、江戸時代の都市京都の都市構造から説明しなさい。(400字程度)
一般的に長距離を大量輸送する場合陸路より水路の方が有利である。江戸時代において京都は大坂に比べ水運において不利な条件であった。その不利な条件でも利益を出すことができたのが西陣で生産されていた高級絹織物だった。生産、流通、販売(および需要を担う富を保有した購買者)の拠点が西陣という個所に集中していたことも商業的に有利に働いた。明から伝来した高機で作られた絹織物は技術的に他の地域には真似することが難しい点とその技巧の高さゆえ朝廷御用達であったことは各地の権力者の購買意欲に火をつけ少量で高値が付いた。原料である生糸の大量生産は国内では難しく、鎖国下の日本において長崎割符商人が輸入を優先的に請け負っており彼らは西陣の南東に多く滞在していた。西陣で生産された絹織物の消費者として西陣周辺に住む天皇・宮家・公家、大名屋敷に住む武士や富裕町人などがおり、各藩は京都に呉服所という御用商人を配置して購入していた。室町通りには織物問屋が多く立ち並んだ。新しく開通した高瀬川の運河のおかげで輸送の負荷が軽くなった。
☆近代西陣の東部(千本通以東)と西部(千本通以西)の違いを、町並の景観とその形成史から説明しなさい。(400字程度
明治維新後、天皇・皇族・公家たちの東京移転および京屋敷の廃止は西陣にとって高級絹織物の主要な顧客を失うという点で大きな打撃だった。幕藩体制が終わり株仲間制度が廃止されため新規参入者との競争下におかれていた西陣は生産高を上げるためジャガード織機を導入したり分業化を進めることで生産効率を上げようとした。松方デフレによって多くの小規模自営業者が織元や工場主から原料を得て製織する賃織業者へと没落した。また明治後半期における生産量の増大に伴って賃織業者の大量雇用が実現し、千本通の西側の路地を進んだ地域には彼らの住んだ比較的新しい時代に建設された外見に個性のない住宅が立ち並ぶ。また分業化したなかで生まれた個人経営の零細の家からは時折機を織る音が聞こえてくる。対して千本通の東側には古い伝統的な京都の町並みが残っており、織屋建という構造の町家は機場が奥にあるため機織りの音が聞こえてこない。また大地主は不況で打撃を受けていた自営業者の住む千本通の東側の土地を集積して織物工場を多く作った。
☆同業者町とは何かを説明し、身近な地域にある同業者町の例を挙げて、簡潔に説明しなさい。(400字程度)
同業者町とは特定の地域に同業種に従事する人々が多く居を構えることで形成された町のことである。同業者が集まっていることは町内のそれぞれの同業者集団間での技能向上の競争につながるのでより安価で品質の高い仕事を提供することができた。具体例として陶磁器の生産に従事する人々が集まってできた瀬戸市の市街地を取り上げる。明治維新後に尾張藩の保護政策が解かれ産地間競争に置かれたことへの対策として西欧技術の導入を図り経営規模を拡大し海外輸出にも力を入れた。瀬戸の業者間の過当競争や生産過剰を抑止するため組合を結成し、有力者が出資して銀行を作ることで問屋の金融的圧力から距離をとった。瀬戸電気鉄道によって瀬戸から堀川まで陶磁器の大量輸送が可能になったことで原料立地の瀬戸川付近および路線沿線に大工場の下請け企業が集中して立地するようになった。この際にうまれた市街地は戦後復興期において窯の改良や燃料の転換を中心とした技術革新や海外の需要拡大を契機に一気に拡大した。
☆江戸時代と近代の木屋町の景観の違いをまとめなさい(400字程度)
江戸時代初期において、木屋町通は高瀬川に面した通りであるが高瀬川の両岸には木屋町の名前の由来になった材木問屋の倉庫など浜地として貸し出された土地に建設された納屋が立ち並んでおり通りから川の様子を眺めることはできなかった。船入りという荷物の積み下ろしをする場所付近には諸藩の京屋敷が存在した。江戸時代後期になると、商人や旅人の観光の需要を見込んだ料理屋や旅籠、酒屋などができていたことが都名所図会などからわかる。
近代になり鉄道建設の過程で木屋町沿いの浜地は全て撤去され川岸の柳も伐採され近代的な風景がうまれた。物流中心の機能を果たしていた木屋町はその倉庫中心の立地から鉄道の線路の建設のための土地買収に適していた。これまでの木屋町が担っていた水運の機能が鉄道によって代替されるなかで増えた観光客の需要にこたえ外見は旧来の日本家屋のままで旅館・貸座敷として遊興の場を提供する役割に町の機能が変化していった。この変化は京都が歴史観光都市としてアピールしはじめたことと連動し鴨川に面して東山の眺望できる土地として宣伝された。
☆身近にある門前町(広義)の例を挙げて、どのような町か、簡潔に説明しなさい。(400字程度}
尾張国愛知郡にある熱田神宮の門前町である熱田について説明する。弥生時代に現在の熱田区の大半は海であった。その時に陸だった部分が現在の熱田台地で、その南端部の断崖に熱田神宮は位置している。そのため海岸沿いだった熱田神宮周辺には古墳が多く残っている。海の部分は江戸時代に干拓され 33区画の新田となりそれを祀った三十三観音をはじめ熱田百寺とよばれるほどたくさんの寺が存在する。宮宿は東海道五十三次 41番目で桑名への「七里の渡し」という海路があり、佐屋・美濃方面への分岐点として賑わいをみせた。宿場には普通の旅籠が 248軒あり東海道の一宿では日本一の旅籠数だった。また大名、旗本らが宿泊する本陣 2軒、脇本陣、奉行所、朱印改役所、人足伝馬問屋が並んでいた。明治以降は鉄道の開通などで旅人が減った。現在の熱田駅に面した熱田神宮前商店街もシャッターの降りた店が目立つ。
☆寺内町に起源を持つ東西本願寺門前町の景観的特長を、狭義の門前町との違いが分かるように説明しなさい。(400字程度)
近世において達成された平和の実現と商品経済の発達および日本全国の道の整備によって急増した庶民の社寺参詣の需要を見込んで寺社は従来の荘園経営収入から門前町における経済収入に重心をシフトさせた。工業面で産地の伝統工芸品や土産物を生産し、商業面で社寺門前の道路にそれらの販売店舗や旅館、飲食店、娯楽施設が立ち並び賑わいをみせた。
対して東西本願寺の地内町は浄土真宗の宗教共同体の自治によって成り立っており居住者および商工業者、参詣者の大半が門徒であった。工業面で社寺の建築修繕に従事する大工、仏具関連業者などが多く居を構え仕事に従事していた。商業面では兼業で運営される客屋町といった宿泊街があった。本願寺の境内拡張や火除地や噴水の設置など本山の機能強化に奉仕するように寺内町の範囲も変化している。現在の東西本願寺の景観の特徴として高級仏具店など仏具関連の製造販売店が多いこの地域は遊楽目的の観光客には敷居が高く催事のない時には人も少なく静かである。京都駅が近いため宿泊施設も多く密集している。
☆地域の歴史性とその現代的表現を、木屋町を例に述べなさい。(400字程度)
頼山陽が鴨川に臨んで東山を眺めることを山紫水明という語で定型化し価値を付加した。明治時代において三条通から四条通にかけての木屋町通は先斗町に隣接していたため直接鴨川を臨む風景が得られず貸座敷や旅館が立地していなかった。代わりに鴨川を直接臨むことのできた先斗町は江戸時代には花街として栄え現在も茶屋や飲食店を経営する町家が密集する情緒的な景観がみえる。対してこの区間の木屋町通は現在飲食店のたくさん入った雑居ビルが立ち並ぶ現代的な景観がみられるが、これはこの区間の木屋町通の道路の狭さゆえに自動車交通に適しておらずオフィスビルが参入しなかったことと両端が大通りと繋がっていることで観光客やオフィス街の人々の飲食需要が見込めたことが要因になっている。また明治時代において二条通から三条通、四条通から五条通の鴨川に面した二か所には貸座敷が多くあったが現在もその歴史性を生かした古い日本家屋の料理店などがあり、これら飲食街としての歴史性が現代的な形で体現された区間が三条通から四条通と考えることもできる。
綾傘鉾における「棒振り囃子」はどのような芸能的意味を持つのか。またその特色は何か。映像を参考にしながらまとめなさい。(200字程度)
棒を振り拍子に合わせて打ち踊る「ハヤス(=神霊の送迎、特に疫病や災いの退散を願う)」行為を通じて巡行の前方の道を清め祓う意味があり、後続する綾傘鉾が神霊が依り付く「座」として「ハヤサレル」対象である。室町時代の記録に、綾傘鉾のことを「はやし物」と表現されていることから綾傘鉾と棒振り囃子とを合わせて風流囃子物として意味を持ち、どちらが欠けても不十分であることがわかる。
祇園祭綾傘鉾の準備の流れについて、映像を参考にしながら具体的にまとめなさい。(200字程度)
6月最終日曜日:三千数百個の粽を作る粽入れ。神社にしめ縄や提灯が灯される
7月1日:神事始めである吉符入り。神職を八坂神社から招き神事を執り行ない、祭の無事を祈る。稚児が八坂神社に社参し結納の儀およびお千度をする。
7月14日~16日:事前に倉庫から町内まで運んでおいた部材を組み立てる鉾建てが14日の午後には完了し前夜祭にあたる宵山が三日間行われる。
7月17日:山伏巡行が行われる。
前祭さきまつり(7月17日山鉾巡行)
受講生各自が現在居住している地域、あるいは生まれ育った地域の「まつり」について調べ、その概略をまとめなさい。(400字程度)
瀬戸は主要産業である瀬戸焼の生産に関係するまつりが多く存在する。中国から瀬戸に焼き物を伝えたという陶祖藤四郎を祀る陶祖祭(4月第3日曜日)と磁器の製法を瀬戸に広めた民吉を祀るために建立した窯神神社での祭礼を契機として始まったせともの祭りの2つが代表的なものであるが、後者は問屋における陶磁器見本の処分を兼ねた産業祭としての側面が強い。陶器製作には火を用いる為、火伏せの神を祀る秋葉信仰に基づくまつりが多く行われている。慶昌院秋葉本殿で行われる秋葉祭の火祭りの大祈祷と火渡り式が特に有名である。陶器製作の材料となる陶土の山ばかりでなく窯の薪を採るにも山の神信仰があり、洞地区では山を持っている人はそれぞれの持ち山の内の特定の木の下に石を建て山の神のよりましとして山の神まつりを行っている。陶磁器以外にも農業の豊作を祈る祭りが四季のサイクルに応じて行われており例えば4月の花まつり、7月の品野の祇園祭は両者とも虫除け祈願を兼ねている。
5京都の盆行事である「六道参り」の特色について、映像を参考にしながら具体的にまとめなさい。(200字程度)
かつての葬地であった鳥辺野の入口に立地する珍皇寺はその昔、無縁仏の散らばる六道の辻(現世と他界との境界)としての象徴として機能していたため現世と他界とを自由に往来したという小野篁の伝説と結びつき精霊迎えとして六道参りは生まれた。具体的所作として水塔婆に先祖の戒名を書き、迎え鐘をつき、その先祖の霊を現世へと迎え水回向を通じて高野槙に先祖の霊をうつし自宅へ直行するというように水を現世と他界とをつなぐ媒体として用いるところに特色がある。
⑹京都の五山の送り火の民俗的意味とその特色について映像を参考にしながらまとめなさい(200字)
五山の送り火は六道参りで迎えた先祖の霊を他界へ帰す精霊送りという民俗的意味をもっており、8月16日夕刻に古くは盆花やダンゴなどの供物とともに鴨川あるいは堀川に流した精霊の往く道を明るく照らす目印として京都盆地を取り囲む山々に大文字に代表される盆の送り火が灯される。多くの人達に見せるために風流化した送り火である万灯籠がさらに変化し山の斜面に火床を築き、そこに松明で大きな文字やさまざまな図柄を描く現在の形ができた。
⑺愛宕信仰の歴史とその特色について映像を参考にしながらまとめなさい(200字)
行方不明
メモ
京都は平安京以来首都機能を持った時期が長かった。また室町幕府に足利氏の幕府が置かれたため公家や武家も多く生活していた。武家勢力は江戸時代において京都支配のために京都所司代を置いていた。
京都の町は金融・商業・産業も栄えていて全国の経済の要であった。その京都において西陣がとりわけ目立った産業に発展した理由。大量生産できないものを作っていたから。
もともと流通の拠点として優れていた。ただし陸路。
海と面していない内陸部という欠点において大坂に商業的に不利である。京都で生活必需品を生産しても競争に勝てない。
角倉了以の作った高瀬川という水路のおかげで従来瀬戸内海から淀川を通り鳥羽伏見までしか水運が使えない状況から宇治川までの水路が使えるようになった。
西陣は絹織物の歴史がある。朝廷御用達
絹織物の原料である生糸は国内生産のものは少なく中国からの輸入に依存していた
輸入を優先的に請け負った長崎割符商人が西陣南東に集中していた
長崎割賦商人の分布図の南東に武士の象徴二条城が位置していた(江戸中期において生糸の国内生産量が増えてくるまで、生糸の寡占は絹織物の希少価値を上げるとともに技術の流出も防ぐことができた。)
京屋敷は
各藩は京都に呉服所という御用商人を配置していた。
頼山陽が鴨川に臨んで東山を眺める
明治時代において三条通から四条通にかけての木屋町通は先斗町に隣接していたため直接鴨川を臨むことができず貸座敷や旅館が立地していなかった。代わりに鴨川を直接望むことのできた先斗町は江戸時代には花街として栄え現在も茶屋や飲食店を経営する紅殻格子の古民家風の建物が密集しそれらの間を東西に通り抜けのできる路地のある情緒的な景観がみえる。対してこの間の木屋町通は現在飲食店のたくさん入った雑居ビルが立ち並ぶ現代的な景観がみられるが、これはこの部位の木屋町通の道路の狭さゆえモータリゼーションに対応できず業務用ビルなどが参入しなかったことと大通りと接しており観光客やオフィス街の飲食需要が見込めたことが要因になっている。また明治時代において二条通から三条、四条通から五条通の鴨川に面した2か所には貸座敷が多くあったが現在もその歴史性を生かした古い日本家屋の料理店などがあり、これらの飲食街としての歴史性が現代的な形で体現された区間が三条通から四条通と考えることもできる。
頼山陽が鴨川に臨んで東山を眺めることを山紫水明という語で定型化し価値を付加した。明治時代において三条通から四条通にかけての木屋町通は先斗町に隣接していたため直接鴨川を臨むことができず貸座敷や旅館が立地していなかった。代わりに鴨川を直接望むことのできた先斗町は江戸時代には花街として栄え現在も茶屋や飲食店を経営する紅殻格子の古民家風の建物が密集しそれらの間を東西に通り抜けのできる路地のある情緒的な景観がみえる。対してこの間の木屋町通は現在飲食店のたくさん入った雑居ビルが立ち並ぶ現代的な景観がみられるが、これはこの区間の木屋町通の道路の狭さゆえモータリゼーションに対応できず業務用ビルなどが参入しなかったことと大通りと繋がっており観光客やオフィス街の飲食需要が見込めたことが要因になっている。また明治時代において二条通から三条、四条通から五条通の鴨川に面した2か所には貸座敷が多くあったが現在もその歴史性を生かした古い日本家屋の料理店などがあり、これらの飲食街としての歴史性が現代的な形で体現された区間が三条通から四条通と考えることもできる。
同業者町とは特定の地域に同業種に従事する人々が多く居住を構えることで形成された町のことである。同業者が集まっていることは町内のそれぞれの集団間での技能の向上の競争につながり、より安価で品質の高い仕事を提供することができた。具体例として陶磁器に従事する人々が集まってできた瀬戸市の市街地を取り上げる。明治維新後に尾張藩の保護政策が解かれ産地間競争に置かれたことへの対策として西欧技術の導入を図り経営規模を拡大し海外輸出にも力を入れた。瀬戸の業者間の過当競争や生産過剰を抑止するため組合を結成し、有力者が出資して銀行を作ることで問屋の圧力から距離をおけるようになった。瀬戸電気鉄道によって瀬戸から堀川まで陶磁器の大量輸送が可能になったことで原料立地の瀬戸川付近および路線沿線に大工場の下請け企業が集中して立地するようになった。戦後復興期から高度経済成長期において窯の改良と燃料の転換を中心とした技術革新や海外の需要拡大から工場の増設が行われ、同時に労働者が大量雇用されたため市街地は一気に拡大した。
近世において達成された平和の実現と商品経済の発達および日本全国の道路の整備によって急増した庶民の社寺参詣の需要を見込んで寺社は従来の荘園経営収入から門前町における経済収入に重心をシフトさせた。工業面で産地の伝統工芸品や土産物を生産し、商業面で社寺門前の道路はそれらの販売店舗や旅館、飲食店、娯楽施設が立ち並び賑わった。対して東西本願寺の寺内町は宗教的共同体の自治によって成り立っており、居住者および商工業者、参詣者の大半は門徒であった。工業面で社寺の建築修繕に従事する大工、仏具の組み立て業者などが多く居を構え仕事に従事していた。商業面では兼業で運営される客屋町といった宿泊街があった。本願寺の境内拡張や火除地や噴水の設置のために幾度となく寺内町の範囲が変化している。現在の東西本願寺の景観の特徴として高級仏具店など仏具関連の製造販売店の多いこの地域は遊楽目的の観光客の需要に応えておらず催事のない時は人も少なく静かである。京都駅が近く宿泊施設も多く立地している。
かつての葬地であった鳥辺野の入口に立地する珍皇寺はその昔、無縁仏(髑髏)の散らばる六道の辻(現世と他界との境界)としての象徴として機能していたため現世と他界とを自由に往来したという小野篁の伝説と結びつき精霊迎えとしての六道参りという習俗ができた。水塔婆に先祖の戒名を書き迎え鐘つき、その先祖の霊を現世に呼び水回向をつうじて高野槙に先祖の霊をうつし寄り道をせずに自宅へ帰る。
かつての葬地であった鳥辺野の入口に立地する珍皇寺はその昔、無縁仏(髑髏)の散らばる六道の辻(現世と他界との境界)としての象徴として機能していたため現世と他界とを自由に往来したという小野篁の伝説と結びつき精霊迎えとしての六道参りという習俗ができた。水塔婆に先祖の戒名を書き、迎え鐘つき、その先祖の霊を現世に呼び水回向をつうじて高野槙に先祖の霊をうつして精霊を迎えるというように水が現世と他界との媒介機能を担っている。