乙女ゲームとして考える「サウンドオブミュージック」論
参考文献
帰還した爆撃機の損傷統計データ。あなたならどこを強化する??答えを
乙女ゲームとして考える「サウンドオブミュージック」論-マリアの教師力を考える-
ゲームのジャンルに男性が主人公となり特定の女性の問題解決を図り、その女性と恋愛関係になるというギャルゲーム(通称、ギャルゲー)というものがあるが、それの性別を反転したバージョンの、乙女ゲーム(通称乙女ゲー)というものがある。これらの恋愛シミュレーションゲームの概要は、ゲーム世界で、プレイヤーは主人公の視点に立ち、他者との親密化の過程を、提示される行動の選択肢を選びながら、恋愛をシミュレーションをするというゲームである。主人公は、特定の他者の所作から相手の望む行動を推測し、選択肢を選んでいくが、ちょっとした判断ミスで嫌われてしまいゲームオーバーになってしまう(バッドエンド)。 サウンドオブミュージックにおいて、トラップ大佐の邸宅をマリアが訪れた際に、既に彼女が来る前に多くの家庭教師が職務を全うせずに辞めてしまっていた。これは、乙女ゲーム的な、可能世界の概念で整理していくと、様々な属性の家庭教師が選んだ選択肢の連なりはバッドエンドに繋がっていたということだ。同じことは、生存バイアスの文脈で表現しても分かりやすいかもしれない。生存バイアスを説明するときによく例に挙げられる話を改変して紹介する。12機の飛行機が飛んでいって、1機の飛行機だけが大量の被弾を受けて帰ってきた。11機の飛行機を教育に失敗した家庭教師、1機の帰還した飛行機を教育に成功し、トラップ大佐と恋愛に成功したマリアだとする。今回の課題では、マリアの人格や行動から「教師になる必要な資質能力」を導きだしているが、これは被弾に耐えた部分に対応します。飛行機の帰還率を高めるためには、実は被弾を受けて墜落しただろうと推測される場所、被弾が多かった場所「以外」の補強を重点的になすことが効果的ではないかという考え方があります。 今回のケースの場合、トラップ一家は、母を失ったことによって、トラップ大佐は妻を思い出させる音楽を子どもに禁止し、過度な規律を子どもに守らせること強いていた。一家の誰も(家政婦も含めて)トラップ大佐の規律から自由でなく、子どもは父親が(妻を思い出させる)家に滞在することを嫌がり育児放棄しがちであったため、尊敬してる父に構って欲しくて新しく来た家庭教師にいたずらをしていた。新しく来た家庭教師は、子どもの問題行動に対して子どもに原因があるとして叱っただろう。
問題解決の観点でマリアの音楽が得意で女性であるという属性は亡き母の代わりとして機能し、子供たちが求めていた父に構ってもらうという願いは、子供に音楽を取り戻すことによって達成された。本来教師に求められる資質はこういったマリアにしかクリアできない特異な要素を除いていき、残ったものに注目する必要がある。具体的には問題行動の原因を安易に子供に帰着させないことが挙げられる。また、乙女ゲーム的な可能世界論における観点では、適切な選択肢を自分が取れるとしたら自分の属性に万能さを求めざるを得なくなるので、とても現実での参考になるものではなくなる(誰も真似できない教師力を唱えることは机上の空論である)。マリアの人格的、聖職的な行動は、社会学における感情労働に近く、それを真似するということには心理的な負担がかかる。そういった最善の手を取り続けたとしても、バッドエンドにならないという保証はなく、また責任を背負っている立場ゆえに逃げることも許されない。 マリアは7人という人数を相手に彼らの名前を適切に覚えたり、個性を褒めたり、発達段階に応じた相手の人権を尊重した振る舞いを演じてみせたが、現実の学校では、一人の担任が40人ほどの大人数を相手にしないとならず、情報化が進んだことでネットなどのみえない人間関係の比重も増えてきて、生徒同士の関係を適切に把握することが難しくなってきている。表面的な問題行動に構っている間に、知らないうちに特定層の問題が生じているということもありうる。 マリアのようにポジティブに捉えるということには一見汎用的な側面がある万能さがあると思われるかもしれないが、これも現実的にどこまで有効なものかも怪しい。生徒に皮肉と解釈される可能性だってあるのだ。
ここまで考察してきたことをまとめて教訓といこう。教師もまた学生なのである。社会的ネットワークが、疎な状態では発想が固着してしまう(失敗した家庭教師は子どもの問題行動は子どもを指導すれば解決するという発想に囚われていたに違いない)。トラップ大佐はお金持ちだったので、何度も教師の選び直し(リセット)ができた。たとえ、自分の問題解決に貢献しないようなマッチングがあったとしても、他の繋がりに期待できた訳だ。 教養審答申で不易とみなされる「教師力」という言葉からは、あたかも理不尽な問題行動を起こす他者を圧倒的コミュ力で解決して惚れさせるというギャルゲーを想起させる。しかし、教育現場では生徒とソロで立ち向かわねければならない訳ではない。なんらかの協力関係を別の教員たちと結ぶ(例えばSlackなどのコミュニケーション基盤を導入する)などの負荷分散の工夫、より個々の生徒の観察ができる環境作り(少人数教室)、多様な物の見方を学べる場をオンライン勉強などで持続的に実現するなど教師の視野を狭めず、絶えず選択肢の可能性を吟味していくという余裕が作れるようなことが、重要であろうし、生徒側もまた安心できる場所や信頼できる人間など依存先をいくつかに分散させていくように交友関係を築いていくことが自身の問題解決に貢献する選択肢作りとして推奨されるようになっていくのではないか。問題を人格から切り離して環境を変えていくことで悪循環を断つこと、これがマリアの教師としての実践としての成功例から導ける汎用的な教訓である。 メモ 破棄
キーワード
プロの教師 教師になる必要な資質能力
生存バイアス 感情労働 聖職者 多孔化 不可視 汎用的な(最大公約的な)振る舞い 個性 記憶に残る 不易 乙女ゲームでは、家事スキルが高く多才な主人公が、簡単になびかない異性を惚れさせるという
まつど @matsudotsuyoshi
6月24日 >
マクルーハンのメディア論でメディアを通じて自分を拡張していくという話と可能世界論を組み合わせると面白いこと見つかりそうみたいなことを今日考えていていた。
自分+メディア→拡張された自分 というマクルーハン風のメディア論をアレンジして、自分+制約を受けた想像上の自分の集合(可能世界論)→拡張された自分。自分の自認と実際の自分との乖離が問題になりがちなんだけど、マッチングアルゴリズムで複数の自分を対象にやるべきことと対応させる的な妄想 自由度の低い時間の質の向上という話でこのブログ記事がよかったんだけど、このあいだの本探しの時に、マクルーハンのメディア論と絡めて、メディアによって自分の学びが変わる(拡張される)みたいなことを整理したかったのに全然うまくやれなかったのが残念だった気もする。
Nという選択肢があったとしてそれをm回繰り返して行けばN^mのルートがあり、