レポート課題:シッダールタの「さとり」について説明し、各自の論評を加えなさい。
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ブッダ(BC560-480)が生きていた時代のインドでは、次の3つの輪廻の存在を認める立場が存在した。
・一つ目は、儀式を中心に輪廻からの解脱を目指すカースト制度に属するバラモン教の人達。
・二つ目は、瞑想の修行を通じて、輪廻からの解脱を目指す人たち。
・三つ目は、苦行を通じて、輪廻からの解脱を目指す人たち。
ブッダは、人間が四苦八苦から抜け出すためには、何をすればいいのかと思い立ち、二つ目と三つ目の有力者のもとで修業をしたが、結果として輪廻からの解脱を果たすことができなかった。ブッダは、菩提樹の下で思索を通じて、縁起という理屈に至る。縁起とは、すべてのものは因果関係にあるということで、すべてのものには原因があるという考え方である。この縁起に気づいた彼は、インドにおいて伝統的な3つの考え方は輪廻という物語を信じて、そこから解脱を目指すという問題解決を目標に立てているが、その前提としている輪廻という物語というのは、縁起が正しいと仮定するなら、虚構ではないかという結論に至った。具体的には、縁起が正しい場合、輪廻する永遠不滅の自己というのもあり得ない。なぜなら、自己には始まりがあるからである。自己が永遠不滅でないなら、輪廻という物語の虚構性を証明することができ、死後も苦しむ自我はないだろうという判断したのである。
この「悟り」の解釈は、現代科学との親和性が高い。現代の人は、そもそも輪廻というものを信じていないから、輪廻の解脱という目標を掲げている信仰を抱くということが難しい。輪廻の存在を否定するという結論は、現代人にとって受け入れやすいものだろう。人権思想を擁護することが日本国憲法で定められており、それに浸っている我々から現在のインドのカースト制度が残るインドの現状をみれば、今から二千年以上前に、そういった身分制を護持するカースト的な思想を支える輪廻の存在を否定したという革新的な意味でも納得しやすい理屈である。しかし、受け入れやすい解答で満足することが、原始仏教の持つ可能性を狭めてしまう側面もある。
まず、永遠不滅の自己がないこと、それゆえ輪廻が存在しないことが証明されたところで、今を生きる私たちの苦しみが軽減される訳ではないということだ。例えば、神経生理学や心理学で原始仏教における「悟り」と機能的に等価なものを追求していけば、意識は因果関係のもと物理的な現象として解釈できる。科学の立場で仏教を解釈していくと、根本的な仮定の部分で苦しみを生み出す現象を固定してしまうというデメリットがある。しかし、一方で苦しみを生み出す仕組みが分かれば、それを改善する手法を探していくこともできるのが科学的手法のメリットでもあり、仏教瞑想の医学的評価を様々な観点から行うということもできる。実際のところ、仏教瞑想は、ときにパニックや幻覚を引き起こすリスクを伴うなどという研究結果もあり、健康法としての有効性には疑問がある。
一方で、科学的な立場から輪廻を否定したという解釈が現代人の価値観から都合のよい部分を繋ぎ合わせた解釈ではないかと考える立場には、「実際に輪廻は存在し、ブッダは神秘体験によってその輪廻から解脱した。その涅槃の境地というのは、これまでの認識の枠組みから外れた境地であり、いまこの世界に対する意識の状態とは大きく異なるものだ」という考え方がある。この解釈の大きなメリットは、科学的手法では功利的な結論に左右されて、仏教の価値が変動するが、そういった現世利益の発想の真逆へ向かう思想を追求する段階においては、そういった評価のあれこれは些末な問題となる。
参考文献
・仏教の科学的考察については、以下の2つのサイトを参考にした。
仏教の社会構造とマインドフルネス瞑想の意味論
Panic, depression and stress: The case against meditation
・原始仏教の神秘主義的解釈の議論は以下の書籍を参考にした。
魚川祐司『仏教思想のゼロポイント:「悟り」とは何か』新潮社(2015)