『知的生産の技術』その後
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(2020/3/24)
知的生産の技術が書かれた1969年はパソコンなどなかったのだが、この文章が書かれた1989年ごろはそれなりにワープロやパソコンが普及していたので、その後の手法の変化について書かれている。「カナモジタイプ」は普及しなかったがかな漢字変換はかなり普及していたころである。 パソコンが普及したといってもスマホのように持ち歩いて使うものではなかったので、フィールドでは紙のカードを使い、それをまとめるのにパソコンを使うという運用をされていたようである。
そういう事情の変化もあり、梅棹氏は「知的生産の技術」の続編を書こうとして岩波の「図書」で連載をスタートしたのだが、民族学博物館の立ち上げなどで忙しすぎたために連載は3回で終わってしまったらしい。この3回ぶんは『梅棹忠夫著作集 第 11 巻 知の技術』に収められているので読んでみたい。 第1回 『知的生産の技術』の反響
第2回 「しらべる」ということ、または文献検索
第3回 ひく本 リファレンス・ブックについて