自分の書く小説がどんどんつまらないものになっていく、という感覚があります
質問
自分の書く小説がどんどんつまらないものになっていく、という感覚があります。 中学生のころから小説を書くのが趣味で、もう七年ほど書き続けています。 昔は書けば書くほど、自分にとって面白いものが出来上がり、書くのが楽しくてたまりませんでした。ですが、ここ数年ほど、アイデアも描写もつまらないものしか書けていないように思います。 これだ!と思うアイデアが浮かばず、つまらないものを書いている自分に悲しくなります。
また書いても書いても疲れず、何時間でも書いていられたのですが、いまでは二時間もすると疲れてしまいます。
高校生くらいの時期に書いたものが、いちばん鋭くものを書けている気がしています。
過去の自分を過大に見ているからでしょうか。
書くことは苦しいですが楽しく、救いでもあり、長く長く続けていきたいです。自分にとって面白い作品を書き続けたいと思っております。
どうにかしてこの状況から抜け出し、自分のための創作を取り戻したいです。そのためになにをするべき、あるいはしないべきでしょうか?
解答
あなたのように才能のある方に掛ける言葉が私にあるのか考えましたが、「書き続けたい」という切実な言葉に、何かしらできる限りの解答をお返しすべきだろうと思い直しました。 書き手としてのあなたと読み手としてのあなたは、これまで最良のパートナーとして一緒に成長することができました。ですが残念ながら両者の成長速度は必ずしも同じではありません。
あなたの書いたものを(このマシュマロ以外は)読んだことがないので判断はできませんが、中学で書き始めて以降、書き手としてのあなたの方が少し先を進んでいて、読み手としてのあなたをいつも満足させていたのかもしれません。
では今の状態は?一つの可能性は、読み手としてのあなたが追いつき、書き手としてのあなたより少し前に出たのかもしれません。書き手としてももちろん成長はしているのですが、今やそれを上回る速度で成長した読み手としてのあなたを満足させるまでは来ていないのかもしれません。
もう一つは、書き手としてのあなたが実は更に先へ進んでいる可能性です。そう考える根拠のひとつは、読み手のあなたから見て「高校生くらいの時期に書いたものが、いちばん鋭くものを書けている」と感じることです。これをそのまま受け取れば、読み手としてのあなたは、書き手が高校生の時点で到達したところにようやくたどり着いたのだということになります。
今の状態がどちらであるかは、書いたものを人に見せることで判明します。
そしていずれにせよ、あなたがなすべきことは、あまり変わりません。読み手としての力量とともに、書き手としての力量を上げること。幸いにして両者の力量は連動しています。どちらかが先に進むことはあっても、それはもう片方を引き上げる力になるでしょう。
具体的には? まず書き続けるために絶対に必要なことがひとつあります。それは(当たり前ですが)次作を書くことです。時にそれは、あなたの痛みを増すものになるでしょう。
おそらく書き手と読み手のギャップは当分続きます。
その不均衡はあなたの成長が7年間かけて蓄積したものだからです。
そこでもうひとつ、為すべきことを付け加えるならば、それは〈書き手として読むこと〉だと思います。
あなたはこの7年間、〈読み手として書くこと〉を続けてこられました。あなたの書くことは、あなたという最も近い読み手に捧げられてきた、といい直すこともできます。
このことが積み上げた不均衡を、時間がかかったとしても解消していくためには、それと正反対のことが必要です。
〈書き手として読む〉とは、文章の消費者として楽しみのために読むのではなく、文章の生産者として「この文章は何で出来ているのだろう、どうやって作られているのだろう」と考えながら読むということです。
文章の消費者として読むためには、文章が描き出す世界に没入すれば足りますが、文章の生産者として読むには「没入しながら醒める」ことが不可欠です。
演劇を楽しむ素人の観客は、舞台で起こっていることが現実であるかのようにその世界に没入します。少なくとも劇を見ている間は、そこにいるのは本当の姫君と騎士、あるいは恋人同士であるかのように受け取り、実際はある一件から仲違えして離婚した女優と俳優の元カップルだ、なんてことは忘れて楽しむことができます。
一方、救いようのない皮肉屋は、この劇が作りごとであること、舞台の上で右往左往している男女は女優・俳優であり、本当の姫でもなければ騎士でもないこと、背景の城壁はただの書割り、筋は陳腐でよく知られた物語のパクリ、劇場の入はいまいちで経営は火の車、なんてことを聞きもしないのにまくしたてます。この皮肉屋の指摘はすべて事実ですが、彼には見えていないもの、あるいは決して見ることができないものがあります。それは、その劇を楽しむ観客達が見ているもの、そして俳優、脚本家、演出家が見せようとしているものです。
そして最後に、第三の立場、舞台を作り上げようとする人たちがいます。彼らは、観客のようには、様々なことを忘れて舞台の上で行われることを現実であるかのように受け取ることはできません。
というのも、まず舞台を成り立たせるためのあらゆる準備を、現実的な制約の下で行わなければならないからです。予算も時間も有限であり、実際に城壁をつくることもできなければ、物語上の何年もの月日をそのまま舞台に乗せることもできません。
しかし皮肉屋のように、舞台を巡る制約や条件を事実として指摘するだけでは舞台はできません。最も重要なこと、観客を作品の中に招き入れ没入させるためには、観客からどう見えるのかという視点が不可欠です。
この台詞回しは本当に観客の心を打つのか、この演出は観客を驚かせると同時に納得させることができるのか、この登場人物の嘆きは観客をとらえ共感へと引き込むことができるのか。舞台を作る者は、舞台の外の現実を冷静に見つめながら、舞台の上の現実ならざるものを見る観客の目を忘れてはならないのです。
〈書き手として読む〉ことはあなたの読み手/書き手両方の力量を確実に高めますが、一時的にであれ、あなたから読むことの楽しみを奪う(少なくとも減じる)ことになるでしょう。何故なら、いろんなものを忘れて/頭から追い出して純粋に楽しむ観客の立場から離れることになるからです。
あなたが出会うすべての文章でこれを行うべきとまではいいません。しかしあなたはすでに、あなたが書いた作品については、このことを始めておられます。だからこそ自分が書いたものが「アイデアも描写もつまらない」ことに気付いたのです。
であれば、あなたが〈書き手として読む〉べき相手は、あなたが自分よりずっとうまいと考える、そのままで観客としても純粋に楽しめる文章になるでしょう。そうした自分以外の書き手を見つけておられるなら結構、もしまだならそれを探すことから始めることになります。
実を言えば、書き手は、自分の書いたものに我慢できなくなってからが本番です。才能に恵まれた者だけが体験できる、自分の中にあるもの/書きたいものを外に吐き出すだけで満足できる、甘美な幼年期は終わりました。少なくない書き手がここで筆を置きます。
書き言葉という舞台の上でもうひとつの人生を生きる代わりに、舞台の内と外から複数の目で見つめながら、その上に世界のどこにも(自分の中にも)まだ無い何かを生み出すために言葉を紡ぐことになるでしょう。
ご武運を。