子供の頃、毎日死ぬことに怯えていました。それから数十年、全てのことをメリットとデメリットに分けて考える癖がぬけません。
質問
子供の頃、毎日死ぬことに怯えていました。それから数十年、全てのことをメリットとデメリットに分けて考える癖がぬけません。 SNSや睡眠などで時間を使いすぎると、「またこんなことで、有限な時間を浪費してしまった・・」と、罪悪感でいっぱいになります。そんな時は一生懸命「SNSで、他では得られない知見が得られた上に、人間関係のメンテナンスまでできて、有効な時間だった」「久々に長く眠って、元気を取り戻した。明日からの頑張りのために必要なことだった」と、無理に自分を納得させます。 子供のことからこういった考えかたで、やりたいことも、「今はやるべき時ではない。受験が終わってから」などと我慢することが多かったのに、勉強や仕事など、本当にやるべきことにも没頭できませんでした。いざ受験が終わって取り組む時間ができたはずの「やりたいこと」も、新しくできた「やるべきこと」を優先したため、ずっと手をつけられなかったりで、現在の私は何者でもない中年です。 友人は子供の頃から将来のことも(多分)ろくに考えず好きなことをし、現在も楽しそうです。そんな友人を見ると、子供の頃受けた、親や周囲からの調教から抜け切れない、真面目な自分が悲しくなります。(真面目な自分は友人よりえらいと優越感を持っていました) 人生とは飴のように伸びた一本の線ではない、と言う意味の文章を高校の国語の教科書で読みました。(小林秀雄だったと思います)。本当に幸せな時間というのは、未来からも過去からも解き放たれたその瞬間のことで、その点の集合が幸せな人生なのだろうな、と頭ではわかっていますが、ちょっと気持ちが弱くなると、無駄な時間を過ごした自分を責め、楽しい思い出も後から罪悪感で汚してしまいます。 何かアドバイスをいただけないでしょうか。
解答
真面目であることについて勘違いされているのだと思います。 夏目漱石『虞美人草』のラスト近く、宗近くんの演説のあたりまで、お読みになることを強くお勧めします。青空文庫で読めます。 「小野さん、真面目だよ。いいかね。人間は年に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮ばかりで生きていちゃ、相手にする張合がない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんは術なげながら、正直に白状した。
相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
これも下を向いたまま云う。
宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肱ひじを乗せる。肱で前へ出した顔を支える。そうして云う。
「こう云う危い時に、生れつきを敲き直して置かないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目まじめになるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。
皮かわだけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据すわる事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。
天地の前に自分が儼存していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。 口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。
実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人ひとり真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」
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