凡人の私でも、学びを続ける意味って何でしょうか
質問
大学三年生です。本を読むたびに、講義を受けるたびに、自分が見える世界が広がっていくのを実感していて、学びの楽しさに気づかせてくれた教授たちや、大学に行かせてくれた両親に感謝しています。
ですが私よりも知識量も理解力も高く、「この人には勝てないな」と感じる人に時々会います。私が考えることも発言することも、彼らから見れば浅はかなものでしかないのかなということ。そして今からどれだけ学びの量を増やしても、彼らと同じ土俵に立てないことを思うと、酷く虚しさを感じます。
おそらく私は何者にもなれません。就活が近づきつつありますが、学歴も高くなく、大学では知識のインプットばかり重視して特別な経験は何もしてこなかったので、社会を変えるような仕事にも就けないでしょう。読書猿さんのように学んだことを多くの人に還元することもできないでしょう。それでも、そんな凡人の、名もなきモブとして人生を終えていく私でも、学びを続ける意味って何でしょうか。 解答
ご指摘したいことは沢山あるのですが手の具合が良くないので少しだけ。
大学は自分より頭の良い人間に出会える貴重な機会のひとつです。そこで、かなわないと思える人間にめぐり逢い、学ぶ楽しさまでも知ったのなら、大学で学ぶ目的の大半を達したと言えます。知はこの先あなたを見放すことはないでしょう。
私たちは、自身に足りないところがあると思い知るからこそ学び、理解できないものがあるからこそ考えます。
自身の不明を恥じ、壁に突き当たり、誰かを見上げ羨むのなら、そのとき人は学びの渦中にいるのです。
一次近似でいえば、私達は皆ひどく無知なくせに何事か知った気でいる愚か者です。
これまでも多くの過ちを犯してきたし、これからも繰り返し間違いを重ねていくでしょう。
それでも人がそうした過ちに抗って来れたのは、私達の知が個体を超えて引き継がれる営みであるからです。
決して会うことのない無数の人たち(その多くを我々は名前すら知りません)が為した知的貢献が世代を越えて手渡されてきたからこそ、生まれつき持っている脆弱性に逆らい、生得的な能力だけでは実現できないこともやってのけることができます。
学ぶとは、知の継承の先端で、そのバトンを受け取ることです。
知識は、私達の一人一人を依り代としなければ、更新されることはおろか、継承されることも保持されることもありません。
そして人が交わすことのできるやり取りは、決して一方的なものとして成立することはありません。あなたが何かを受け取ったなら、そのことによって、あなたに与えてくれた人に何事かを手渡しているのです。
図書館の書庫に眠る古い書物に蔵された知識が、誰かの知的好奇心に触れることではじめて息を吹き返すように、あなたが学ぶことで自身の世界が広がったと感じるなら、あなたにその知識を届けた人もまた深い知的満足と、さらに知の継承を続けていく勇気を得るでしょう。
こうして知識は、時空を超えて、受け渡され、付け加えられ、つながっていくのです。
学ぶこと、そして知ることを楽しむことができる人は、残念ながら多くありません。
それだけでも私には、あなたが特別な一人であるように思えます。
老婆心ながら付け加えると、人生は「自分は何者にもなれない」と思ってからが本番です。おそらくあなたは他の人よりほんの少しだけ早く、その境地に至りました。ご活躍をご祈念いたします。