テスト勉強の努力を否定しますか?
質問
大学生です。
先日「頭など別に良くならなくても、テストや資格試験で必要な点数をとったり、趣味(読書や映画鑑賞)を楽しめたり、ニュースを理解できたり、仕事ができるようになることは可能です。これらはすべてやり方が存在するからです」と書いていらっしゃいました。
私はテストで「親から自分に要求される学校」に入るために必要な点数を取る事に、自分で言うのもなんですが大変な努力をしてきて、それなりに押しつぶされそうな気持ちでやってきました。
試験でいい点をとるやり方はあって可能なのかもしれませんが、そのやり方を教えられても軽くこなせる人とそうでない人がいます。私はそうではありませんでした。それなりのレベルに届くのはすごく大変でした。応用力のない紋切り型のやりかたでも私には必要でした。
読書猿さんが『独学大全』で紹介されているのも、ひとつの「やりかた」ですよね?
これまで読書猿さんの書いているブログなどを読んでいて、努力を否定されたと思ったことはなかったし、そんな事は書いておられないと思いますが、最近少し不安になっています。
解答
『独学大全』の最初で、他のやり方は意味がないとか非効率だとか批判し、我こそは最善のやり方だ、というタイプの勉強本を批判しました。やり方は二の次で、続けることこそ肝要だとも書きました。そして最後では、自分のやり方を見つける/やっていくことを応援したつもりです。
一方、この本の中で、否定的に扱ったものが2つあります。一つは「本を読むことは通読することだ」という考え方、もう一つは「勉強とはテストに正解するために行う努力だ」という考え方です。
前者では通読向きの書物を既に楽しんでおられる方に、後者では試験勉強等に多くを捧げて来られた方に、不愉快な思いをさせてしまったかもしれません。
私がある考え方を批判するのは、誰かの存在を否定したいからでも、こき下ろしたいからでもなく、その考え方が呪いのように作用して苦しんでおられる方を助けるためです。
その意味で、すでに広いところに出ておられる方には無益な部分もあると思います。
この本は独学についての本なので、独学のために最低限必要な読書のやり方を取り上げてました。
しかし本を読むことは、それだけではありません。
そして大切なことですが、ある書物を実用書や娯楽書といったジャンルに一方的に分けることは本来不可能なように(一冊の本が人によって、また時々によって、楽しみになったり役に立ったり様々な有益さをもつように)、読み方もまた「これは楽しむための読み方だ」「役に立たせるための読み方だ」ときっちり分けられるものでもありません。ゲラゲラ笑ってその後忘れてしまった一冊に命を救われることだってあるからです。
読者についての研究は、「読み捨てられる娯楽本」と扱われ文学史等でも取り上げられなかった小説を、当時の読者がどう読んでいたのか、馬鹿にした人たちが想像もしないやり方で、人々とつながるのに/未来を切り開くのに、どのように活用されていたのかを明らかにしつつあります。
「勉強とはテストに正解するために行う努力だ」という考え方についても同様です。「自分はテストの点が悪かったから頭も悪いんだ、だから今更学んだって仕方がないんだ」と思い込まされている人たちに、そうじゃないんだと言いたくて、この考えを批判しました。
頑張って良い点を取った人たちの努力をわらうためではありません。私はその努力を馬鹿にしないし、誰にも(もちろんあなたにも)馬鹿にして欲しくありません。
ある時期何かを我慢してまで努力をつづけ目標に達することができたことは、とてもすごいことです。『独学大全』でいえば、大抵の場合に勝利するシステム1を見事抑えて(あるいは出し抜いて)目標まで完走されたのですから。
その上で、もしも私の言葉にいつか耳を傾けていただける時が来るのなら、次のことをお伝えしたいです。
何かを学ぶことは、苦しいこと、我慢することは多いけれど、それでもやはり楽しいことでもあるのだと、苦しいばかりのことであれば、ヒトは学ぶこと知識を重ねることをこれまで続けてはこれなかっただろうということを。
『独学大全』を見つけていただき、手にとっていただき、ありがとうございます。あなたの道行きが幸いなるものであることを願い祈ります。