アイン・ランドが学術的な対象とされていないのは何故なのでしょうか
質問
アイン・ランド(Ayn Rand)というアメリカのリバタリアンに大きな影響を与えていると言われている小説家がいますが、日本ではそれほど取り上げられていないのもあって、何故アメリカで大きな影響を与えているのか実態がよく分かりません。またその主張ははもっともらしいことを言ってるように聞こえるのですが、学術的な対象とされていない(自分が知らないだけかも)のは何故なのでしょうか。
解答
「学術的な対象とされていない」とまでは言い切れませんが、ランドが論じたトピックに関連のある分野、例えば徳倫理学、エゴイズム論、権利論、自由意志論などで、ランドが取り上げられることはほぼありません。
こうなっている理由は、アカデミアとは学問的対話の共同体なのですが、ランド(とそのフォロワー)がその対話に参加しない(できない)からだと思います。
例えばスタンフォード哲学百科事典では、Ayn Randの哲学が「学界で評価が分かれている」理由について次のものを挙げています。
・自説への反論に対する充分な検討がない。
・他の哲学者の見解を断片的な読解に基づいて却下することがある
・ランドの論証は不十分でその主張を支持できていない
これらはジャレド・ダイアモンドのようなベストセラー作家にも共通する点ですが、ランドの場合はさらに、その思想(オブジェクティビズム)にも一因があるように思えます。
オブジェクティビズムでは、現実は人間の意識から独立して存在しており、人間は感覚を通じて現実と直接接触し、正しく理性を用いることで客観的な知識を獲得することができる、とされています。一見、これらは素人でも知っている素朴な世界観・認識観のようですが、現実は誰にとっても同じであり、人々の間で見られる認識の違いは、ただ理性を正しく用いているか否かの違いであるとすると、自らの主張するところは様々な思想の一つではなく唯一の真理であり、これに賛同しない者やその不備を指摘する者は理性を正しく用いない輩だ、と決め付けることになりかねません。オブジェクティビズムにおいては、対話は不要なのです。
ランドのオブジェクティビズムにおいては、知のあり方も、その主張に見合って個人主義的です。知は、理性を用いる/思考を合理的に行う個人と現実との間の関係であって、その果実は社会的成功として個人が受け取ります(失敗したならそれは、その人の思考が合理的でなかった、ということになります)。他の誰かとの対話や相互吟味はそもそも必要とされていません。
しかし学問的研究は日常的には失敗の連続です。我々は間違いを重ねることを通じてしか知識を進めることができません。
また、学問の世界では、どれほどの天才、どれだけの偉人の主張であろうと、厳しく繰り返し吟味され、不備があれば指摘され、瑕疵があれば批判されます。通常、批判にたいして再批判が応じ、これらの繰り返しで議論は精緻化され、私達の知識は少しずつ改善されていきます。学問とは、こうした批判的対話のネットワークであり、集団的な知的営為なのです。
なおランドの対話を拒否する姿勢は、アカデミズムに限られません(キャベットのテレビ出演拒否事件)。
以上では、ランドが学術的な対象とされていない点のみを扱い、
ランドの思想の問題点(利己主義の問題点を十分に認識していない、自己利益の対立を過小評価している)や、ランドの信奉者のカルト的なふるまいや、ランドが誰にウケているか、ランドが日本で流行らない理由などについては取り上げませんでした。