「できないのが自分である」という思い込みはなぜ起こってしまうのか
質問
読書猿さんが「こんな人間にも、独学の意味はあるでしょうか」という質問に対して回答されているのを見ました。いままで疑問に思っていたことが少しほどけたような気がしたのでマシュマロを送ります。
常々、「できないのが自分である」という思い込みはなぜ起こってしまうのかが気になっていました。わたしは高校生で、勉強が得意な友達がいます。彼女は勉強以外のことに対しても「まあ、わたしならできるだろう」という期待を抱いているように見えるんです。学校の壁に貼ってある留学のポスターや英語のビジネスコンテスト(一応学力不問のものも多いです)にどんどん応募しています。一方で、いっしょにこの本を読もうとか、このwikipediaの項目はおもしろいとか言ったときに、「わたしは頭が良くないから(そういうのはちょっと)」と冗談めかして言う友達も複数人います。謙遜の場合もあると思いますが、私は、そのようなときに何と言ってよいのかがわからなくて困っていました。本当に思っているのだとしたらもったいないし、特になにかを始める前から諦めているのはなぜだろうか。まだ高校生であるのに、なぜ諦めている人とそうでない人がいるのだろうか。と根深い問題があるような気がしてならなかったのです。そのような疑問に対して、先の友達が医者の家系であることや過去の経験から無理やりに、家が裕福だと良い教育が受けられる→成績が良くなる→自分に自身が持てるというったふうな理由付けで雑に理解しようとしていました。読書猿さんのマシュマロの回答を読んで、自分の予想は完全に当たっているとは言えずとも、家庭環境と諦める習慣は学習の経験を介して関連しているという解釈は間違っていないように感じました。それらは個人が何とかできるものではないと思います。(読書猿さんはそのような人たちを助けるために活動されているのでしょうか、)そこで質問なのですが、「わたしは頭が良くない」と思い込んでいる人やそのような発言に出会ったときに、わたしはどのような行動を取れば良いのでしょうか。それは違う、と心の中では思いながらも、いつもうまい返答ができずにいます。
解答
「これ、やってみたい!」と言ったとき、「いいね、やってごらん」と言われてきた人と、「やめろ、お前なんかにできるはずない」と言われ続けた人との違いなのかな、と思います。
移り変わりやすい子供の好奇心をすべて肯定し、その都度 機会を与えるには、それなりの金銭的余裕や時間的余裕や心理的余裕が必要です。裕福な家庭ほど、そうした余裕があることが多いかも知れません。もちろん金銭的に裕福でも、子供の好奇心をピックアップする時間的余裕や心理的余裕がなかったり、成績などに非常にセンシティブで学業以外のことやるのを禁じる理解のない/知的余裕や心理的余裕のない親御さんもおられます。
もう一つ、自信は実は、成功体験ではなく失敗の体験、より正確には、失敗したけれども何とかなった体験によって培われます。
「失敗しても何とかなる」と思えるからこそ、失敗するかも知れないリスクを取った挑戦をすることができ、失敗してもそれを貴重な学習資源として受け取ることができます。
逆に「失敗したらどうしよう」という不安にかられると、新しい事柄への挑戦は回避されがちになります。もっとこじれると、ネットでお見かけする「あやまったら死ぬ」人に、「僕は正しい→だから修正する必要はない→修正不要だから謝らない→謝らないから僕は負けてない」みたいなことをおっしゃる方に、成り果てます。
子供時代の「失敗しても何とかなる」体験の多くは、「安全に失敗できる」環境を大人が用意することで得られます。その環境の中には、失敗した時に周りの大人(親を含む)から「やっぱり失敗した。お前なんかにできるはずがなかったんだ」などと言われないことが含まれます。いろいろ段取りした大人が、自分の段取りが無駄になったと捉えず、余裕をもって「おしかったな。何が足りなかったか考えようか。失敗は君だけのために用意されたオーダーメイドの教材だから」などと言えるといいかもしれません。
さて、ご質問への解答です。
「わたしは頭が良くない」と思い込んでいる人やそのような発言に出会ったときに、あなたにできることはほとんどありません。
あなたには、その人の過去も家庭環境も無自覚の信念も変えようがありません。「安全に失敗できる」環境を用意することも荷が勝ちすぎるでしょう。
もしもあなたが「失敗を厭わず挑戦できる」人であるなら、唯一何かできることがあるとすれば、
失敗するかも知れないことに挑戦して、失敗した場合にも「おしかった。何が足りなかったか分かったから、もう一回やってみる」と、再挑戦してみせることかもしれません。
そんなあなたを見て、失敗は避けられないこと、しかし死に至ることでも、二度と立ち直れないことでも、恥ずべきことでもないこと、失敗しても何度でも挑戦できること、失敗からこそ多くを学ぶことができることを、理解する人が出てくるかもしれません。