読書猿さんは、日本に、日本人に悲観したりしないんですか?
質問
読書猿さんは、日本に、日本人に悲観したりしないんですか?
解答
悲観しません。理由は大きく分けて2つあります。
ひとつは、私は結構歳を取っているので、(大きな主語を更に大きくしてしまい恐縮ですが)そもそも人間のやることについてあまり大きな期待をしなくなっているからだと思います。
よく言えば、実体験や文献から学んだことがいくらかあり、ヒトの限界や弱点について以前よりは理解できるようになったのだ、と。
もうひとつは、年かさの者として、つまりこの世界からより長く恩恵を受けた者として、自分より若い人たちに、この世界は知るに足りまた生きるに足りるところだと、それでも希望を持つことはできるのだと、(信じてもらうことはできなくても)せめて言葉にする義務があるように感じるからです。
私達は失敗します。とてもひどいこと、人を人とも思わないとできないこと、取り返しの付かないことをしでかします。それも何度も繰り返し。しかも、失敗を覚えていること、反省すること、一度忘れた失敗をもう一度思い出すこと、これらの行為を誰かが行うことを許し認めること、どれも苦手です。
私は最初に書いた本『アイデア大全』の序文にこう書きました。
「人文学の任務とは、人が忘れたものや忘れたいものを、覚えておき/思い出し、必要なら掘り起こして、今あるものとは別の可能性を示すことである。」
今では、ここは「人文学」ではなく「人文知」と言うべきだった(人文学にそこまで要求してよかったか)と思いますが、全体としては私の考えは変わっていません。
人文知に期待されるこの任務は、ヒトという生き物の傾向に部分的には逆らうものです。
この任務は、我々の暗部を切り開き、寝た子を起こし、黒歴史を明るみに出すかもしれません。我々が忘れたい過去、なかったことにしたい失敗を掘り起こし、そのせいで誰かの大切なものを毀損し、怒らせたり悲しませたりするかもしれません。
その意味で、人文知は広くは祝福されない知的営為であり、知的営為全体の中でその静脈機構を担うものと言えるかもしれません。
けれど、この任務は、その眼差しを「希望」に向けています。
なぜなら希望とは、今あるものに満足しない者が求める「別の可能性」に他ならないからです。