自分に生まれたことが嫌で誰か違う完璧な人に生まれたかった
質問
中学生の頃に不登校になって、引きこもりを経て夜勤の警備のアルバイトを始めたばかりのものです。友達も恋人もいたことがなく孤独で、虚しさと哀しみだけを抱えて日々を過ごしています。
このまま、老いていくだけの人生を想うと虚しさでぞっとする。
私にはいわゆる推しがいてその人だけが生きがいです。妄想だけが楽しみで、自分じゃない誰か完璧な存在になって推しと恋愛する妄想をしています。生きてる世界が違いすぎて現実に推しに会いに行く時は、本当に自分なんかが会いに行っていいのかと申し訳ない気持ちになります。
世の中幸せな人たちばかりではないでしょうが、なぜ普通の人たちは恋愛しこの世に子供を生み出そうと思えるのか。たとえ今は幸せでもやがて年老いて死んでいく、そこに虚しさは感じないのか。どうしてみんな普通に生きていけるのか。
自分に生まれたことが嫌で誰か違う完璧な人に生まれたかった。自分はもう生きたいとは思わない。
解答
申し訳ありません。私はあなたが考える完璧な人とは程遠い、ただの猿です。
なのであなたを慰める優しい嘘も、あなたを絶望させる手加減なしの真実も話すことができません。
その代わりに、あなたはきっと聞きたくない、「人はなぜ生きるのか」について、私が思うところをお話します。
人は「生きたい」と思って生きているのではありません。
「生きがい」があるから、また「死にたくない」から、生きる目的があるから、幸せを感じるから、将来に期待が持てるから、生きるのでもない。
人が今日生きるのは、昨日も生きていたからです。
「生きたい」と思うことも、「生きたくない」と思うことも
「死にたい」と思うことも、「死にたくない」と思うことも
生きる目的を持つことも、幸せや不幸を感じることも
「生きがい」を持つことも、失うことも
将来に期待することも、絶望することも
年老いて死んでいくことも、それを虚しいと感じることも
みな「生きている」という木の枝にできた果実であって、その逆ではない。
つまり
生きている→生きたい、幸福、期待、絶望、虚しさ……
であって、
生きたい、幸福、期待…… → 生きている
ではない、ということです。
もうひとつだけ。
「生まれる(た)こと」は、たった1回限りのことで、あなたが毎日重ねてきた「生きること」と比べれば、いかほどのこともありません。
おまけに、生まれ直すことはできなくとも、「生きること」はこれからも毎日、あなたのために残っています。