経済政策の良し悪しについて、ポジショントークに陥らずに勉強をするにはどうすれば良いのか
質問
経済政策の良し悪しについて、ポジショントークに陥らずに勉強をするにはどうすれば良いのか、知恵を貸していただきたいです。
現在学部で政治学を学んでいて、各種「政治思想」とその歴史について、というような話題は楽しみながら勉強できているのですが、話題が個別の経済政策になるとその良し悪しを語ろうにも経済学の専門家でなければ難しいのではないか、と思ってします。
そうは言っても現在の政治に関する議論では経済政策の評価は避けては通れない点でもあるのが困ったところです。
一応経済学の教科書は一冊(A&L&L)をなんとか読み通して、全く知識がなかった自分には勉強にはなったのですが、それ以上の、具体的な個別の政策(たとえば積極財政政策)の評価については、文献や情報を探してみても、どれがポジショントークでどれが信頼の置ける議論なのかを区別できている自信が全くありません。
具体例として、現在X(ツイッター)では積極財政政策を訴えて、反対者や財務省を「ザイム真理教」などの言葉を用いて批判する意見をよく見かけます。
そして大学の先生でもこのような意見を評価している人もいれば、批判している人もいるように見え、積極財政へよ見解は政治に関する大きな対立軸の一つであると思います。
このような問題について、どのような情報源や手段でその正しさを評価、検討することができるでしょうか。
P.S.いつもマシュマロの回答やブログを楽しみに読ませていただいています。次回作や、それ以外のプロジェクトも楽しみに応援しています。
解答
オススメは中級の教科書(たとえばブランシャール マクロ経済学)を読むことですが、その前にいろいろ気になることを書いておられるので、大部分はそのことについて書きます。
経済政策自体の評価は事後に統計的に行うしかありませんが(その成果は研究論文として公表されます)、問題にされているのはむしろ「経済政策論議」の評価であるような気がします。
X(ツイッター)の例を挙げておられますが、そこで観察されるものの多くは、「経済政策の論議」というよりも、一方的な価値観にとらわれた制度改変信仰の告白です。
確かに、我々の政治的認知能力は限られている(込み入った話は理解できない)し、我々はまた認知的負荷をできるだけ軽減したい(楽したい)という傾向を持っているので、政治的イシューは極端に単純化され、また二者択一的に極端化されることが少なくありません。しかしこのレベルでは、そもそも議論どころかトークすら成立しません。
しかし一方で、この種の制度改変信仰が選挙動向に影響を与え、その後に政策に深刻な悪しき影響を及ぼす例もまた枚挙暇がありません。
制度改変信仰に問題が多いのは、スローガン的に同じ表現を繰り返しておけば、政策の乗っ取りが容易なところです。
制度設計の段階で主導権を握った一部勢力の価値観・イデオロギーを反映した種々の経済政策の変更の例もまた枚挙暇がありません。
経済学を始めとする社会科学の知見は、こうした素朴な制度改変信仰に抗する認知ワクチンの役割を果たすことが期待されます。
実は「どれがポジショントークでどれが信頼の置ける議論なのか」という二分法はあまり有効な戦略ではありません。
「信頼の置ける議論」は取り上げるテーマを適切に限定/設定するところに成立します(「なんでもこれでよくわかる」と主張するものは基本的に信頼できません)が、どのように限定/設定するかに論者のポジションが反映します。すべてを扱えない以上どこかを切り取るしかないのですが、何を切り取るかは、その人がどんな分野や学派等コミュニティに属しているか、そのコミュニティでは何がイシューとして取り上げるに足りるとされるか等に左右されます。
先述の通り、誠実な論者は、自身が自覚する限りでそのポジションを明記します。しかしそれでも、より大きな(例えばこれまでの蓄積や時代的な制約を含む)文脈(コンテキスト)は自覚することは、誠実で賢明な人にも難しい。事後的に、最終的には歴史の審判を待つことになります。
一つの指標として、自身のポジションとそこから生じ得る認知制約について自覚的かつ明示的である議論は、その分信用がおけるかもしれません。反対に「ポジショントークではないふりをする(たとえば真理を語っている振る舞いをする)」議論は論者が自覚的である場合にもない場合にも、信頼し難いでしょう。
私達の認識もその言語化も、どれだけ優れたものであれ、現実の一面を切り取る以上のことはできません。
であれば、その一面が一面に過ぎないことを忘れること、世界の全てであるかのように見せかけることは、知的な意味で不誠実だと言えるでしょう。
しかし、認知的負荷をできるだけ軽減したい(楽したい)という傾向は、「なんでもこれでよくわかる」と主張する論者や、ポジショントークではないふりをする(たとえば真理を語っている振る舞いをする)論者を、好みます。なぜなら「あの人のいうことなら信頼できる」という認知的態度は楽なので。生き物として選びがちな自然な態度だとすら言えるかもしれません。同様に、「あいつは◯◯なやつだから、主張はすべてポジショントークで取り上げるに足りない」というスタンスも、「あの人のいうことなら信頼できる」と同様の認知的負荷を避ける態度だと言えるでしょう。
知的誠実さは、こうした自然な認知的態度に抗するためのトレーニングの結果、獲得される人工的なものであり、その意味で分野限定的です。自分の分野で知的に誠実な議論をしてきた論者も、いつもそうできるとは限らない、ということです。
私達にできるのは、ある主張や議論が、どのような前提に立って成立するのかを意識し、確認することでしょう。
幸い、経済学を始めとする社会科学に由来するトンデモ議論や詭弁は、元々議論が成立する前提条件を都合よく忘れる(振りをする)もの、そうやって成立しないところにまで議論を拡大敷衍して都合のいい/耳障りの良い主張をするものがとても多いので、この確認作業の習慣は役に立つと思います。