私は現実をそのまま取り入れるのが苦手だと思います
質問
私は現実をそのまま取り入れるのが苦手だと思います。それを変えたいと思っているのですが何も出来ていません。今年高校卒業の歳の女です。
現実で起こっている悲観的な事実(16で家庭の事情で家を出て一人暮らし。夜な夜なトラウマにうなされて鬱になり周りの人間を無下に扱ってしまう。)と、
客観的に見て褒められる?自分を肯定できるようなような事実(高校を特待生で受かり無料で私立高校へ進学。何やってもそれなりにこなせて成績を得れる。等)
私は前者の事実を見た時、必要以上に感傷に浸り、大して現状を変えようと行動もせずただただ自分が怠惰であることの理由としてしか消費出来ません。なので私の人生において“良い事”が起こった時、それを上手く受け入れることが出来ないです。
本当は、自分は大学で勉強して仕事をして、給料を貰って、そのお金で充実した生活をおくりたいと思っています。けど、自分みたいな出で立ちの人間がそれを望むのは、出すぎた考えだと思ってしまいます。周りの大人たちに、自分の夢や目標を相談しても、コンカフェや風俗や、30代、40代ぐらいの男性を捕まえて生活する方が良いなど、上手く言葉に出来ないけど、頭を殴られるような言葉を言われ、自分自身ですらそうなんだろうな、自分の夢は今世では実現出来ないのだろうな、と思ってしまいます。
最終的に何を相談したかったのか、趣旨がぐちゃぐちゃになってて上手く言葉にできなくなってますが、なにか、言葉を下さると嬉しく思います。
解答
現実をそのまま取り入れることは多分、人間には不可能です。
現実は複雑かつ巨大で、個人はそのわずかの部分しか触れることができません。
しかし、それでは(断片的に得られる印象だけでは)分かった気にもなれないので、聞きかじりと想像でもって欠けている部分を補います。
人が「現実」だと思っているのは、こうしてできたフィクション(つくりごと)と断片的なリアルの混合物です。
このこと、フィクション(つくりごと)とリアルの断片の混合物を「現実」だと思い違いしていることに、人が気づくのは、
例えば、自分にとって「当たり前」だと思っていることが、他ならぬ現実によってうらぎられる時です。
こうなって初めて、人は自分が「現実」だと信じてきたものが、かなりの部分、期待や想像で埋められていたことに気づきます。
けれど、私は、フィクション(つくりごと)など全て投げ捨てて、リアル100%で生きるべきだ、とは思いません。
それは100%夢に浸って生きるのと同じくらい不可能だし、生きるうえで必要なもの大切なものの大半を失うことでもあるからです。
「昨日より今日が、今日より明日が、いくらかましな日であるかもしれない」というのは、願いであり望みであって、確かにリアルではありません。
しかし何かを望み願うからこそ、かつてつらい出来事があった事実は変えられなくとも、その出来事の意味は変えられる。
フィクション(つくりごと)は、ばらばらなリアルの断片をつなぎ合わせ、意味づけするものでもある。
それを捨て去ることは、人生から意味を、何かを目指そうとしたり何かになろうとする意思を、奪うことです。
何かを目指す人は、邪魔されたり、心折られるような言葉を投げつけられたりするでしょう。
心を折ろうとする人たちは、あなたに「これが現実だ」とばかり、「残酷な事実」なるものを突きつけてくるかもしれません。
しかし、絶望できるのは希望を持つことができた者だけです。
「残酷な事実」を投げつけてくる人たちは、聞きかじりと想像でもって埋めたフィクションと断片的なリアルの混合物を、「現実」として信じ、動かしがたいものとして奉じ続けるでしょう。
しかしあなたはフィクションが、つくりごとであること、つくられたものなのだと知っています。
そして、それは、つくられるもの、つくりなおすことができるものです。