質問
個人で解決できる問題ではない、と割り切って生きるしかないのでしょうか。
解答
社会に対する個人の無力感は、実は「文学の無力さ」みたいなものとパラレルです(問題の構成に同じ種類のロジックが使われているので)。(つづく) 文学の方には模範解答があって、ビアフラの飢餓のような状態を前に文学は無力だといったサルトルに対して、リカルドゥがビアフラで起こっている悲惨を知って同情したり、何とかすべきと判断するような想像力、判断力を養っているのは文学を含めた文化的教育だと。
そうした想像力・判断力を、文学だけが養っている訳でも、また文学だけで養える訳でもありませんが、文化とはその構成要素が互いに依存し合うネットワークであること、文学が文化の欠くべからぬ一部であること等は間違いなさそうです。
個人の問題に戻ります。社会の諸問題に、一個人がほとんど何も影響を与えられないとしても、そうした「無力な」個人を抜きにしては社会は、そして社会問題もまた成り立ちません。例えば社会に生起する様々な不都合や軋轢を「おかしい、これは問題だ」だと言挙げする誰かがいないと、そしてその声に共感する個人個人がいないと、社会問題はそもそも存在すらしないからです。 社会は必ず変わります(良い方向ばかりではないにしても)。そして、この変化はどこかから与えられたものではなく(外からの衝撃があった場合でさえ)必ず多くの個人が関わっています。
なんとなれば社会は、個人から、個人の行動から、個人間の相互行為から、できているからです。
例えば私のような取るに足りない者の言葉(ツイート)も、誰かが受け取ってくれるかもしれません。それが別の言葉に、行動につながることがあるかもしれません。
社会はきっと、言葉や行動や想いのそんな連鎖から、連鎖と連鎖が絡み合った網目のように、できているのだと思います。
Non ridere, non ligere, neque detestari, sed intelligere
「私は人間の諸行動を笑わず、嘆かず、呪うこともせずにただ理解することにひたすら努めた」(スピノザ『国家論』) 文献