時間の捉え方からやり直したいです
質問
時間の捉え方からやり直したいです。大学院生です。やりたいことややるべきことはたくさんあるのにどれも十分に取り組めず、だからといって休むことにも罪悪感があり、なにも達成もせずただ疲れています。
独学大全を読みました。
ご紹介されていたタイムトラッキングアプリですべての行動を記録すると、取り組んでいる時間に対する成果が少ないことが浮き彫りになり、自分の頭の悪さに嫌気がさします。たとえば「読書」「読解」「書く」「語学」など、やりたいことやるべきことに時間が費やされているにもかかわらず、成果はありません。家事や食事などに1時間単位で時間がかかるのにも腹が立ちました。
アプリのせいなのかはわかりませんが3週間ほど続けた時点で疲弊して参ってしまって、記録をやめました。この継続できなさも悪いところですし、そもそもアプリで記録するという程度のことができないのはおかしいと思います。またその記録をやめたところで、この一旦可視化された現状はまたなあなあになってしまうだけなので、デメリットしかありません。
時間の管理は勉強の要だと思います。でも自分がただ時間を浪費しているという事実に対して、時にもっとがんばろうとさらに時間を投入したり、時にバチンと糸が切れてパブリックスペースで泣き出したり、たぶんこれは長期的に継続可能なやり方ではないと思っています(みなさんこれを飼い慣らして継続するのでしょうか?)。
読書猿さんは、自分ができるようになったことを実感することの大事さも仰っていると思います。それも自分のなかでなにか引っかかっています。できることが当たり前なら(たとえば外国語文献を読むことは大変だとしても、それは達成すべきことではなく前提です)、「できるようになった」と思うことにどんなメリットがありますか。
時間に関してと、成果について、自分の悩みを書きました。論理的な整合性はないと思いますが、自分のなかで絡み合ってるものを説明できるようには努めました。勉強して意味のわからなかった主張の位置づけがわかるようになったりすること自体は本当に楽しいです。おそらく、できていて然るべきことと、その楽しいことが等号で結ばれているのが問題なのかなと思いました。とにかくやってる時間に対してなにもできていなくて苦しいです。時間を無駄にしています。どの考え方を直すべきかご助言ください。
解答
厳しい言い方になります。
セルフモニタリングを3週間続けられたのはご立派ですが、その結果はあなたが自分に求める「水準」から遠かった。そのことに耐えられなかった、ということだと思います。
自分についてのデータが得られたのであれば、そして「自分はもっとできるはずだ(できていて当然だ)」という「仮説」(本当はただの「思いこみ」ですがあえてこう呼びます)とデータの間にギャップがあるのであれば、修正すべきはその「仮説」の方です。
あなたがどの分野の研究を志しておられるのか分かりませんが、データを軽んじ、自分の「仮説(思い込み)」に拘泥されるのであれば、研究者(の卵)として第一歩から踏み誤っておられると思います。
Stay cool. どうか研究対象に対するのと同様に、ご自身に対しても、もう少し冷静になってください。
研究生活は試行錯誤の、言い換えれば、失敗の連続です。費やした時間に比例して成果が上がるようなものではありません。
しかし十中八九、失敗するとしても挑まなければ先に進めない。
こうした仕事の性質上、時間を費やしたがすぐに成果が得られないことを「浪費」と考えては、試行錯誤が億劫になり、ますます成果から遠ざかるだけでなく、精神も病みます。
生命科学者の吉森保先生と対談した折、「続けられる人は、小さな喜びを感じられる人だ」とお聞きしました。
先生がおられる医学部には、たとえば「家族をがんで亡くしたからがんを治したい」のような高い志を持って入ってこられる人が少なくない。しかし倦まず撓まず続けて成果を上げる人は、日々の些細な「成功」を拾い上げ、それを喜べる人だと、言うのです。
その小さな「成功」(a small, good thing)は、他の人が見れば「やれて当然」「できて当たり前」で、喜ぶようなことではないでしょう。
だからこそ、自分でその小さなことを拾い上げることができる人、きちんと喜び寿ぐことできる人は、その小さな喜びを糧に明日をつむぐことができる。
これが私の考える「自分ができるようになったことを実感することの大事さ」です。
自分が時間がかけてやったことを「浪費だ」「やれて当然」「できて当たり前」だなどと思うのは、ひどい「思い上がり」です。それは明日へ向かう心の糧を無造作に捨てているに等しい。まったく「何様のつもり」でしょうか。
おそらくセルフイメージでは、「自分に厳しい」態度を取っておられるのだと思います。
しかし、第三者から見れば、意識ばかりが高すぎて、最も大切な研究資源である自分自身を、あまりにぞんざいに扱っておられるように見えます。