教える側に責任はないのですか?
質問
読書猿先生の解答に対する私の違和感について。
まず、先生に恨みはありませんし、生じるわけがありません。
古文に関する解答で「単語や文法、そして読解をバラバラに学ぶ愚を、そして古典常識の必要性を理解されると思います。」とありました。
すみません、教える側に責任はないのですか?なぜ、教えてくれなかったんでしょうか?先生の回答は生徒側への叱責ばかりで、教える側について触れないような気がしてモヤモヤします。
受験古文に関しては、カリスマ講師の本がたくさんあります。その方々は生徒に愚行を勧めたのでは?
確かに生徒側にも問題はあります。教える側は?
解答
お気持ち、分からなくもありません。
「単語や文法、そして読解をバラバラに学んでも読めない」のは、書き言葉を学ぶ常識に属するものですが、当たり前の話ほど口にされにくい。私もいろんな分野の「常識」が分からず苦労したので、あえて当たり前のことばかり集めた本を書いています。
当たり前のことが言語化されにくい理由はいくつかあります。
ひとつは「当たり前のこと」を実行できたとしても、それを言語化してまとめることは別のスキルであり、できる人はそれほど多くないことです。
もうひとつは「当たり前」のことを言語化するメリットがあまりないことです。できる人は既にできているので、わざわざ言語化する必要がありません。さらに(どういうわけか、いや本当は理由は検討ついていますが)当たり前のことを言語化すると「そんなの当たり前だ、語る意味がない」と積極的に避難し邪魔をする人まで居られます。
さらに一つ、当たり前の話は、受け手(読者や学生)に人気がないことです。書店で棚を眺めると、王道的努力を必要とする参考書は片隅に追いやられるか品切れです。王道的アプローチは、長期の時間と努力を必要とするので、一発逆転を狙う人たちには人気がありませんが、勉強に関する「常識」は当然のことながら王道的アプローチと親和的です。そもそも一発逆転が可能なら、わざわざ時間をかけて勉強する必要がないはずだからです。
それと関連して、教師/講師が必ず触れるはずの王道的アプローチは聞き流して、邪道・裏技的アプローチを追い求める中二病的受験生は今でも一定数おられます。
つい先日も「予備校へは自習室のために行ってる。講義に出るなんて効率悪い」という方をツイッター上でお見かけしました。
さて、最後になりましたが、勉強本の著者として一言申し上げるなら、
人は、知らないこと/分からないことがあるから学ぶのであり、学ぶ側に無知・無能はあっても責められるべき咎はありません。
しかし、何かを知る度に、自分を無知に留め置いた存在への憎悪を募らせ責任を糾弾するなら、学ぶことで自分を変えるのとは反対に、自分をこれまでいた過去にかたく結びつけることになるでしょう。しかも自分では変えようのないものに、学習で費やすはずだった貴重な認知資源を注ぎ込みながら。
学びを続けるのであれば、その恨みはあなたが負うべきものではありません。どうかマシュマロに置いていってください。