振り返りができない人間に、負のループからの脱出は可能でしょうか
質問
振り返りができない人間に、負のループからの脱出は可能でしょうか。
私は意欲が先行して上達が伴わない人間です。中高のテストで複数回100点を取ったり、興味のあることを独学して本を読みノートを取り言葉を組むことはできます。
一方、注意が続かず振り返りが本当に苦手です。受験のために通っていた塾のテストの振り返りが嫌いすぎて、振り返りのポーズだけとって対策などを全く行いませんでした。また、集団での授業とテストがおちつかず苦手で、自分の現状把握から遠ざかっています。
振り返りをしないので当然変化を加える点が明らかにならず、上達しないうちに学習性無力感がどんどん大きくなります。その場しのぎの高得点獲得と八方美人の態度も合わさって、頻繁に自分の好奇心の向く先がわからなくなります。後者に関しては多くの人が長く経験するということがわかるようになってきました。
創作技術と英会話を上達させたいので、振り返りを起点に学習性無力感を克服したいと思っています。何から取り組むべきでしょうか。
また、現在大学を休学中で、近々単独で3ヶ月海外に渡航しフィールドワークを行う予定です。現地の人々の観察等行う予定ですが、先述の相談と合わせて意識すると良いことなどありましたら、合わせて助言をいただけると嬉しいです。大学の地域研究と自身の音楽創作を掛け合わせて、同世代の社会規範を勉強しようと考えています。
解答
後半の問いからお答えしましょう。
フィールドワークには振り返りが不可欠です。振り返りがおろそかだと、珍しいもの/見たいものだけを見て終わりの(本人だけが楽しい)見聞に留まるでしょう。
フィールドで出て色んな人に会う時間と比べると、振り返りは遥かに退屈で苦痛の多い時間です。
膨大な記録とデータをなんども見直し、最初は無関係に見えたさまざまなもの/ことを何度も突き合わせ、なんとか浮かんできた見立てでまとめてみるもののうまく行かず、もう一度記録にダイブして最初からやり直す。それも繰り返し。
この過程で、フィールドワーカーは自分の至らなさ、見落とし、しくじり、そして自分の退屈さとこれから書こうとしているものの無益さに、何度も何度も直面します。ベテランのフィールドワーカーですら、ひどく落ち込みます。
フィールドに出ているよりはるかに多くの時間をこの振り返りに費やすことで、フィールドワーカーはようやく、ただ現場を右往左往するだけでは見えなかったもの/気づかなかったものを「発見」し「理解」することができます。言い換えれば、見知らぬ土地を訪れ見聞きする経験が、振り返りを通じてはじめて「フィールドワーク」となるのです。
参考文献として佐藤 郁哉『フィールドワークの技法―問いを育てる、仮説をきたえる』を挙げます。
これらを踏まえて、前半の問いにお答えしましょう。
人間は基本的に振り返りが苦手です。新奇なものに注意を引っ張られ、一度やったことは目もくれないのはヒトの仕様です。
一度「分かった」と思ったものからは新鮮さという魅力が失われ、無理に目を向けようとすると苦痛でたまらない。
そんなあなたにうってつけの手法があります。オート・エスノグラフィ、自分を対象にフィールドワークすることです。
あなたはご自分を、もう十分見知った、そして新鮮さという魅力が失われた、フィールドワークに値しない退屈な存在だと思っておられるでしょうか。
それこそがあなたの病巣です。振り返りができないのは、あなたが自分自身に退屈し、その可能性を信じていないからです。
そしてその思い込みはフィールドワーカーにあるまじき、奢った態度だと申し上げます。
古来より旅の教育的価値は、異郷の景観や文物に触れることではなく、その経験を通じて新しい眼を獲得することだとされてきました。
あなたにとってご自分が退屈な存在に見えるのだとしたら、それは自身を見る眼の方が濁って鈍っているからです。
自分についての記録を取り、分析し、これまで知らなかったご自身を発見してください。
そうして鍛えた眼は、異国のフィールドでも力を発揮するでしょう。
最後に、有名な言葉ですが、すべてのフィールドワーカーが瞼の裏に刻むべき金言をご紹介しましょう。
「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。
あらゆる場所を故郷に感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。
だが、全世界を異郷に思う者こそ、完璧な人間である。」
(サン・ヴィクトルのフーゴー)