何を信じればいいのか、どういう態度で世の中の情報と向き合っていけばよいのかという事が分からなくなってしまっています
質問
先日の江戸しぐさに関するツイートをリツイートされていたものを、関心が湧いたので調べてみました。 発想した人が個人的に主張していたものが、社会的に実際にあったものとして受け入れられている、しかもそれが学校の教育で昔からの伝統のように語られている実態を恐ろしく思いました。
現在、大学でレポートを書いており、参考文献の引用と自分の意見との区別や、意見についてきちんと根拠を提示すること等に気をつけて書いており、自分で気をつけていても指導教員に根拠のあやふやさ等を注意されています。 学校の教育については、根拠、信ぴょう性について吟味されているもので、全面的にとはいかなくても、ある程度は信じてよいものと考えていたところ、今回のような事例があることを知り、衝撃的でした。
何を信じればいいのか、どういう態度で世の中の情報と向き合っていけばよいのかという事が分からなくなってしまっています。
長くなってしまいましたが、情報に対してどのように向き合っていけばよいのか、意見をお伺いしたいです。
個人的な要望になってしまい、途中曖昧な部分もあり大変恐縮なのですが、お願いします。
解答
個々の情報にしろ、情報源にしろ、何かを絶対的なものとして信じることは危険ですが、何一つ信じないことも不可能です。我々にできるのは、それぞれを暫定的/条件付きで受け入れながらも懐疑と吟味をやめないことです。
労ばかり多く見えてうんざりしそうですが、ご利益もあります。賢く知識豊かな人間になれることです。
知識や情報を正しい/間違ってるという二分法でとらえる白黒思考の持ち主が、学習に際して字句通りの鵜呑み、暗記をしがちなのに対して、条件付ける懐疑者は、ひとつの情報·知識を様々な情報·知識と突き合わせ結びつけることで(懐疑し吟味するにはそうせざるを得ません)、結果としてより深い理解とよりよい記憶保持を得ます。また習得された知識もより使われやすくなります。
情報·知識を検討するのに有用なのが、その作り手になってみることです。実際に1からやってみるのは大変ですが、受け手から作り手の立場に立とうとするだけでも多くのものが見えてきます。
例えば『歴史学研究法』の最後で取り上げられた事例:「塩尻峠の戦い」について、信頼度の様々な(つまり全面的には信用できない)歴史史料をそれぞれ評価し、突き合わせて活用しながら、史実を確定させていく作業をコンパクトに例示してくれており、歴史研究者の立場から史料を、そして歴史を見るやり方を垣間見ることができ、得るところが大きいです。