どうしても理解したいが全くもって理解できない本と出会った時の対処法が知りたい中学生です
質問
どうしても理解したいが全くもって理解できない本と出会った時の対処法が知りたい中学生です。
自分は教科書以外の読書一冊目として『アンチ・オイディプス』という哲学書に手を出しましたが冒頭の一文すら理解できず不満を感じています。ちなみに動機は、突然哲学の世界に飛び込みたくなったの一言です。 哲学書には学校の教科書のように順序立って進んでいく過程というものが示唆され得ない様な、個が独立して完結する存在というイメージがあり、身動きがとれないでいます。
まるでコントの様な文章になってしまいましたが自分は真剣なので、行動のヒントになるような回答を期待しています。
解答
とてもよいご質問だと思うので、丁寧にお答えしようと思います。最初に文章を読むとはどういうことかを、次に「理解できない本」との付き合い方を、最後に「哲学書をどのように読むのがよいか」を述べたいと思います。
1.文章を読むとはどういうことか
まず、文章を読むことについてです。
最初に知っていただきたいことは、読んですぐに分かる文章は実に限られていること、世界にあるほとんどの文章は簡単には理解できないことです。
私達の多くは自分に理解できる文章を選んで読むことが多いので、逆にいえば、一読して分からないものは放り出して忘れてしまうことが多いので、読んでわかることはむしろ珍しいのだということに気づきません。
これに気づくのは、あなたのように自分の実力を顧みず無茶な挑戦をする人、難しかろうが読んでやるんだと無謀なチャレンジをする人です。
この事実に気づくだけでも、その後の読書生活は全く違ったものになります。
無自覚に分からないものを避けて通る読書家は、知らないうちに自分をごく限られた書物や文章のうちに閉じ込め、本に書いてあることなど高々こんなものだと決めつけて、しかもそのことに気づかぬまま生涯を終えるでしょう。
反対に、自分が分からない文章や書物があることを当然のものと知った人は、書物の森や文献の海の本当の広さと深さを思い知る機会を得て、将来、自分が思いもしなかった書物や文献に助けられる可能性を開くでしょう。
2.「理解できない本」との付き合い方
では具体的に「理解できない本」とどのように付き合えばいいのでしょうか。
まずは「わからない」にもいくつか種類があることを理解できると、それぞれの「わからない」について何をすればいいか、方針のようなものが立ちます。
次のリンクに、以前にマシュマロで「分からない」と付き合う方法についてのご質問に答えた解答があります。
『独学大全』という本には、同じことをもう少し丁寧に説明しました。というのも、独学をしていけば、かならず繰り返し「わからない」状態に陥り、対処する必要が出てくるからです。 ここでは上の解答に従い、「分からない」を不能型、不定型、不能型の3つに分けてみます。
不明型「分からない」は最も重度なもので、よくいう「何がわからないかも分からない」状態です。
例えばまったく知らない外国語を前にした時、この状態になります。
この場合に取ることのできる対応は、その分からないものを(1)部分に分けて、(2)部分ごとの解釈を仮にでも決めることです。
知らない外国語の例で言うと、(1)単語らしきものに分けて(分かち書きしない言語ではこれ自体難事業ですが)、(2)それぞの意味を仮に決めることになります。辞書がある場合は、辞書を引いて訳語のひとつを当てはめることがこれにあたります。
不明型の「分からない」に上記のような対処ができれば、うまくいけば不定型の「わからない」状態へ進むことができます。
不定型「分からない」というのは、その部分部分は理解できなくはない(何らかの解釈ができる)のですが、その解釈を組み合わせを考えると、いろんな組み合わせがあり得えて、そのうちどれが正しいのか決められないという状態です。
再び外国語の例で言えば、単語ごとに訳語を当てはめてはみたものの、どうも意味が通らなくてうまくいかない。なので、それぞれの単語について、いろいろと違う訳語を当てはめながら試行錯誤しているような状態がこれにあたります。
この場合に取るべき対応は、総じて言えば複雑さをコントロールし、できれば解釈の組み合わせの数を減らすことです。
このためには(3)部分それぞれの解釈の幅を限定する(絞り込む)ことと、(4)部分間の関係を考え、全ての部分を統合する文脈を仮定することを往復しながら、(5)全体を評価してよりよい解釈の組合せを探すことです。
再び外国語の例に戻れば、その言語の文法を理解していれば、部分の解釈(単語それぞれの機能と意味)をかなり絞り込むことができます。
さらにもう一つ、その文章の一つ外側にある文脈(コンテクスト)から、たとえば前後の分野、それまでの文章の流れなどから、どの解釈は不適切でどの解釈が適切が決まることがあります。
これらによって解釈の数を減らしながら、適切な意味を絞り込んでいくわけです。
上記の作業がうまくいけば、不能型「分からない」へ進むことができます。
不能型「分からない」は、とりあえず解釈(どんな風に理解すれば良いのか)は決まってきたものの、まだ不整合や矛盾するところが残っていて、首尾一貫した解釈(理解)ができていない状態です。
この場合には、つくった解釈(とりあえずの理解)を一度を壊してやり直す必要があります。
そのために、不定型での対応とは反対に、一旦は縮減した複雑さを敢えて拡大することになります。
(6)部分それぞれの解釈を変更することと(7)部分を統合する文脈を変更することを往復しながら、(8)矛盾や不整合のない解釈(理解)をつくりあげていくことになります。
(6)と(7)の往復では、一度手に入れた「分かった」という感じを手放し、再び「分からない」状態に身を投じることになるでしょう。このことは、とりあえずの理解を越えて、よりよい理解へ進むために必要です。
これは、敢えて複雑さを、解釈の幅と多様性を導入し、目下の理解を揺らし、解体した上で再建する作業が、難事業です。
しかし、我々の理解は、そうした解体と再建の繰り返しによってわずかながらも、これまで達し得なかった領域に進み得るのです。
3.哲学書をどのように読むのがよいか
さて、上記のような「分からない」への対処法は、詳しくない言語(時には暗号)を解釈するのにも使える汎用的なものですが、目下の我々の課題は、『アンチ・オイディプス』という哲学書を読むことです。
これには何をすればいいでしょうか。
一般に、哲学書が難しいのは、我々を宛先に書かれたものではないからです。ドゥルーズ=ガタリは日本の中学生であるあなたに向けてこの本を書いた訳ではありません。
これはつまり、著者と想定読者が共有している問題意識や、理解に必要な前提知識を、我々は欠いている(場合が多い)ことを意味します。
何故その書物が、何の目的で書かれたか、この本で一体何をしようとしているのか等、知らないままページを開いても、部分の意味を推測する知識もないまま、そして全体を理解のための/解釈を限定するための文脈を欠いたまま、挑むことになります。
しかし我々想定外の読者にもできることはあります。
一番手っ取り早く有効なのは、援軍を呼ぶことです。
あなたが湯水の如く資金を使える富豪中学生ならば、ドゥルーズ=ガタリに詳しい人に個人教授を依頼し、分からないところは解説してもらいながら、この本を読み進めることができるかもしれません。
しかし多くの場合、中学生でなくとも、そこまでの資金は使えないでしょう。
代替手段として、我々は、難しい書物を読むために、援軍として別の書物や文献を使うことができます。
いくつかの手助けになる書物をご紹介しましょう。
まずドゥルーズがどんな問題にどんなやり方で取り組んだ哲学者なのかを知るために、おすすめできる入門書の中では唯一文庫になっている次の本を。
この本を読むのに、いくらか哲学の知識が必要かもしれません。
最低限の知識を手っ取り早く得られるもののうち、一番読みやすいのは『哲学用語図鑑』(プレジデント社)が有用でしょう。 さてドゥルーズについて概要がつかめたとして、実際に『アンチ・オイディプス』を読むには、もう何段階か間を埋める「踏み台」があった方がよいかもしれません。
まず、
を手元においておくと、ドゥルーズに特有の用語を理解するのに役立つでしょう。
もう一冊は、ほとんど『アンチ・オイディプス』の注釈書というべき
が、分からない部分が出てくる度に開き、個人教授がわりの書物として、あなたの読書のよき同伴者となってくれるでしょう。
何か問題に行き当たれば、またマシュマロを投げてください。
ご健闘を祈ります。