夏目漱石は鎌倉の材木座によく滞在していた
材木座は夏目漱石(1867~1916)の避暑地であった。明治30年(1897年) 8月に、夏目漱石の夫人である鏡子と、鎌倉(材木座)に静養に来ている。当時、材木座のその一帯は、大橋任伯爵の土地であったそうだ。
明治45年(1912年) の8月に、材木座6丁目にあった田山家の別荘に、夏目家が避暑に来ていました。
この一帯は鎌倉在住の方々には、材木座と言うより、「紅が谷(べにがやつ)」言うようである。
鎌倉の三方を囲む山々は、尾根が発達した地形で、多くの谷戸(やと)があり、この場所を谷(やつ)とよぶ。
材木座海岸での体験が「こころ」に出てくる
「紅が谷の青い空」という資料がある
https://gyazo.com/3d8261b463d3c349a0708891f4f0b769
https://gyazo.com/0f27d76a0ab5039e102abee445f010fa
これはウチの近所だったりする 増井俊之.icon
(OCR text)
淑
禎
紅が谷の青い空·再説
10
マリ
紅が谷の青い空·再説
『行人』『心』、二つの鎌倉
泰
海岸には掛茶屋が二軒あつた。私は不図した機会から
其一軒の方に行き慣れてゐた。長谷辺に大きな別荘を
構へてゐる人と違つて、各自に専有の着換場を接へて
ゐない此処いらの避暑客には、是非共斯うした共同着
換所といつた風なものが必要なのであつた。〈上>
『心(『東京朝日新聞」大正三四·二〇~八·一二、
大正三·九刊)の冒頭の舞台となっているのは、鎌倉であ
る。「私が先生と知り合になつたのは鎌倉である」(上一
とあるように、海水浴で鎌倉に来ていた友人に誘われて合
流したものの、友人は国元からの電報で呼び戻され、ひと
り取り残された「私」がしばらく滞在を続けるうちに、西一
洋人を連れて海水浴に来ていた「先生」を見かけたのがキッ
カケだった。
ここには、長谷という具体的な地名が出てくる。同時に、
「此処いら」が長谷ではないことも明示されている。同様
のことが、こんな個所についても言える。
私は其二日前に由井が浜迄行つて、砂の上にしやが
みながら、長い間西洋人の海へ入る様子を眺めてゐた。
私の尻を卸した所は少し小高い丘の上で、其すぐ傍が
私は実に先生を此雑踏(海や浜辺が海水浴客で混雑
していた|藤井注)の間に見付出したのである。其時
山と空―漱石と一郎はもっと近くから見上げていた
漱石と鎌倉―「紅が谷の青い空・再説」より―