1.7 矢田部良吉博士〔と〕の支吾
図篇第六集が出版されたのが、明治二十三年であったが、この年私には、思いもよらぬ事が起った。というのは大学の矢田部良吉教授が、一日私に宣告して言うには、 「自分もお前とは別に、日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」というのである。私は甚だ困惑して、呆然としてしまった。私は麹町富士見町の矢田部先生宅に先生を訪ね、「今日本には植物を研究する人は極めて少数である。その中の一人でも圧迫して、研究を封ずるような事をしては、日本の植物学にとって損失であるから、私に教室の本や標品を見せんという事は撤回してくれ。また先輩は後進を引立てるのが義務ではないか」と懇願したが、矢田部先生は頑として聴かず、「西洋でも、一つの仕事の出来上る迄は、他には見せんのが仕来りだから、自分が仕事をやる間は、お前は教室にきてはいかん」と強く拒絶された。私は大学の職員でもなく、学生で〔も〕ないので、それ以上自説を固持するわけにはゆかなかったので、悄然と先生宅を辞した。
当時私は日本ではじめて「むじなも」を発見していたが、その研究を大学でやる事が不可能になったので、困惑していたが、池野成一郎君の厚意で、ともかくも駒場の農科大学の研究室でこの研究を続行する事ができた。私は矢田部教授の処置に痛く失望悲憤し、自分に厚意をもつマキシモヴィッチ氏を遠く露都に訪とわんと決心した。ところが、幸か不幸か、突然マキシモヴィッチ氏の急死の報に接し、私の露国行の計画は中止のやむなきに至った。当時、所感を次のように綴った。
所感
結網学人
専攻斯学願樹功
微躯聊期報国忠
人間万事不如意
一身長在轗軻中
泰西頼見義侠人
憐我衷情傾意待
故国難去幾踟※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)
決然欲遠航西海
一夜風急雨※[#「黯のへん+(西/土)」、U+9EEB、41-1]※[#「黯のへん+(西/土)」、U+9EEB、41-1]
義人溘焉逝不還
※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57)忽長隔幽明路
天外伝訃涙潸潸
生前不逢音容絶
胸中鬱勃向誰説
天地茫茫知己無
今対遺影感転切
私がもし当時マキシモヴィッチ氏の下に行っていたならば、私の自叙伝もこの先、全く異なったものとなったわけである。