1.4 「植物学雑誌」の創刊
ある時市川・染谷・私と三人で相談の結果、植物の雑誌を刊行しようということになった。原稿も出来、体裁も出来たので、一応矢田部先生に諒解を求めて置かねばならんと思い、先生にこの旨を伝えた。
その時矢田部先生がいうには、当時既に存在していた東京植物学会には、まだ機関誌がないから、この雑誌を学会の機関誌にしたいということであった。
このようにして、明治二十年私達の作った雑誌が、土台となり、矢田部さんの手がそれに加わり、「植物学雑誌」創刊号が発刊されることとなった。 白井光太郎みつたろう君などは、この雑誌が続けばよいと危惧の念を抱いていたようだ。 当時この種の学術雑誌としては既に「東洋学芸雑誌」があったが、「植物学雑誌」が発刊されると、間もなく「動物学雑誌」「人類学雑誌」が相継いで刊行されるようになった。
私は思うに、「植物学雑誌」は武士さむらいであり、「動物学雑誌」の方は町人であったと思う。というわけは「植物学雑誌」の方は文章も雅文体で、精練されていたが、「動物学雑誌」の方は文章も幼稚ではるかに下手であった。
当時「植物学雑誌」の編集の方法は、編集幹事が一年で交代する制度だった。堀正太郎しょうたろう君などは、横書を主張し、堀君の編集した一ヵ年だけは雑誌が横書きになっている。 雑誌は各頁、子持線で囲まれ、きちんとしていて気持がよかった。そのうち、何時の間にかこの囲み線は廃止されたが、私は今でも雑誌は囲み線で囲まれているのがよいと思っている。
小石川の植物園には、中井誠太郎という人が事務の長をしていた。この人は笑い声に特徴があった。現在の植物学教室の教授をしている中井猛之進たけのしん君の父君である。 私は盛んに方々に採集旅行をしたが、日光・秩父・武甲山・筑波山等にはよく出かけた。
自分は植物の知識が殖えるにつけ、日本には植物誌がないから、どうしてもこれを作らねばならんと思い、これが実行に取掛った。
植物の図や文章をかくことは別に支障はなかったが、これを版にするについて困難があった。私は当時(明治十九年)東京に住む考えは持っていなかったので、やはり郷里に帰り、土佐で出版する考えであった。郷里で出版するには自身印刷の技術を心得ていなければいけんと思い、一年間神田錦町の小さな石版屋で石版印刷の技術を習得した。石版印刷の機械も一台購入し郷里へ送った。
併しその後出版はやはり東京でやる方が便利なので、郷里でやる計画は止めにした。
この志は明治二十一年十一月になって結実し、『日本植物志図篇』第一巻第一集が出版された。私の考えでは図の方が文章よりも早わかりがすると思ったので、図篇の方を先に出版したわけであった。 この第一集の出版は、私にとって全く苦心の結晶であった。日本の植物誌をはじめて打建てた男は、この牧野であると自負している。