1.2 自由党から脱退
当時は自由党が盛んで、「自由は土佐の山間から出る」とまでいわれ、土佐の人々は大いに気勢を挙げていた。本尊は板垣退助で、土佐一国は自由党の国であった。従って私の郷里も全村こぞって自由党員であり、私も熱心な自由党の一員であった。当時は私も政治に関する書物を随分読んだものだ。殊に英国のスペンサアの本などは愛読した。人間は自由で、平等の権利を持つべきであるという主張の下に、日本の政府も自由を尊重する政府でなければいかん。圧制を行う政府は、打倒せねばならんというわけで、そこの村、ここの村で盛んに自由党の懇親会をやり大いに気勢を挙げた。 私も、よくこの会に出席した。併しかし後に私は何も政治で身を立てるわけではないから、学問に専心し国に報ずるのが私の使命であると考え、自由党から退く事になった。自由党の人々も私の考えを諒とし脱退を許してくれた。
自由党を脱退した事につき想い出すのは、この脱退が芝居がかりで行われたことである。隣村に越知村という村があり、仁淀川によどがわ仁淀川.iconという川が流れていて、その河原が美しく、広々としていたが、この河原で自由党の大懇親会が開かれた事があった。私は党を脱退するにつき、気勢を挙げねばいかんと思い、紺屋こうやに頼んで旗を作り、魑魅魍魎ちみもうりょうが火に焼かれて逃げて行く絵を書いてもらった。佐川の我々の仲間は、この奇抜な旗を巻いて大懇親会に臨んだ。我々の仲間は十五、六人程いた。 会場に入ると、各村々の弁士達が入替り立替り、熱弁を揮っていた。その最中、私達はその旗をさっと差出し、脱退の意を表し、大声で歌をうたいながら会場を脱出した。この旗は今でも保存されている筈である。
明治十五年、十六年の二年間は専ら郷里で科学のために演説会を開催したり、近傍に採集に出掛けたり、採集物を標品にしたり、植物の図を画いたりして暮らした。
明治十七年にどうもこんな佐川の山奥にいてはいけんと思い、学問をするために東京へ出る決心をした。そして二人の連つれと共に東京へ出た。 東京へ出て各々下宿へ陣取ることになった。私の下宿は飯田町の山田顕義あきよしという政府の高官の屋敷近くで、当時下宿代が月四円であった。 下宿の私の部屋は採集した植物や、新聞紙や、泥などでいつも散らかっていたので、牧野の部屋は狸の巣のようだとよくいわれたものである。
同行の二人は学校へ入学したが、私は学校へは入らずに居るうち、東京の大学へ連れて行ってもらう機会がきた。
東京の大学の植物学教室は当時俗に青長屋といわれていた。植物学教室には、松村任三(じんぞう)・矢田部良吉・大久保三郎の三人の先生がいた。この先生等は四国の山奥からえらく植物に熱心な男が出て来たというわけで、非常に私を歓迎してくれた。私の土佐の植物の話等は、皆に面白く思われたようだ。 それで私には教室の本を見てもよい、植物の標品も見てよろしいというわけで、なかなか厚遇を受けた。私は暇があると植物学教室に行き、お蔭で大分知識を得た。
当時、三好学・岡村金太郎・池野成一郎等はまだ学生だったが、私は彼等とは親しく交際した。私は教室の先生達とも親しく行き来し、松村任三・石川千代松さんなどは、私の下宿を訪ねてくれたし、私も松村・大久保両氏と共に矢田部さんの自宅に招かれて御馳走にあずかったこともあった。