1.13 松村任三博士とのけい離
1.13 松村任三博士との※(「目+癸」、第4水準2-82-11)離けいり
その頃から松村任三先生は次第に私に好意を示されなくなった。その原因は、私が植物学雑誌に植物名を屡々しばしば発表していたが、松村先生の『日本植物名彙』の植物名と牴触し、私が松村先生の植物名を訂正するようなことがあったりしたので、松村先生は、私に雑誌に余り書いてはいかんといわれた。またある人の助言で松村先生も対抗的に、植物学雑誌に琉球の植物のことなど盛んに書かれたりした。このように松村先生は、学問上からも、感情上からも、私に圧迫を加えるようになった。 ……私は大学の職員として松村氏の下にこそおれ、別に教授を受けた師弟の関係があるわけではなし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理窟はないと、私は相変らず盛んにわが研究の結果を発表しておった。それが非常に松村氏の忌諱ききにふれた。松村氏は元来好い人ではあるが、狭量な点があって、これを大変に怒ってしまった。他にもなお松村氏から話し出された縁談のことが成就しなかったので、それでも大分感情を害したことなどあり、それ以来、どうも松村氏は私に対して絶えず敵意を示されるようなことになった。事毎に私を圧迫する。人に向かって私の悪口をさえいわれるという風で、私は実に困った。…… 『大日本植物志』は余り大きすぎて持運びが不便だとか、文章が牛の小便のように長たらしいから、縮めねばいかんとかいわれた。そのうち、松村先生は『大日本植物志』を牧野以外の者にも書かすといい出した。私は『大日本植物志』は元来私一人のために出来たものなので、総長に相談したところ、それは牧野一人の仕事だといわれたので、松村先生の言を聴かなかった。『大日本植物志』は第四集迄出たが、四囲の情勢が極めて面白くなくなったので、中絶するの止むなきに至った。
教室の人々の態度は、極めて冷淡なもので『大日本植物志』の中絶を秘かに喜んでいる風にさえ見えた。
『大日本植物志』の如く、綿密な図を画いたものは、斯界しかいにも少ないから、日本の学界の光を世界に示すものになったと思っている。あの位の仕事は、なかなか出来る人は少ないと自負している。今では、私ももう余りに年老いて、もう再び同様のものを打建る気力はないが『大日本植物志』こそ私の腕の記念碑であると私は考え、自ら慰めている次第である。