1.12 月俸十五円の大学助手
矢田部先生罷職の事があった直後、大学の松村任三先生から郷里の私のところへ手紙で、「大学へ入れてやるから至急上京しろ」といってきた。私は「家の整理がつき次第上京する、よろしく頼む」と書いて返信し、明治二十六年一月上京した。やがて私は、東京帝国大学助手に任ぜられ、月俸十五円の辞令をうけた。 大学へ奉職するようになった頃には、家の財産も殆ほとんど失くなり、家庭には子供も殖えてきたので、暮らしはなかなか楽ではなかった。私は元来鷹揚おうように育ってきたので、十五円の月給だけで暮らすことは容易な事ではなく、止むなく借金をしたりした。借金もやがて二千円余りも出来、暮らしが面倒になってきた。 その時、法科の教授をしていた同郷の土方寧君は、私を時の大学総長・浜尾新あらた先生に紹介してくれ、私の窮状を伝え助力方を願った。浜尾先生は大学に助手は大勢いるのだから牧野だけ給料をあげてやるわけにはいかんが、何か別の仕事を与え、特別に給料を出すようにしようといわれ、大学から『大日本植物志』が出版される事になり、私がこれを担当する事になった。費用は大学紀要の一部より支出された。私は浜尾先生のこの好意に感激し、私は『大日本植物志』こそ、私の終生の仕事として、これに魂を打込んでやろうと決心し、もうこれ以上のものは出来ないという程のものを出そう。日本人はこれ位の仕事が出来るのだということを、世界に向かって誇り得るような立派なものを出そうと意気込んでいた。 『大日本植物志』こそ私に与えられた一大事業であったのである。