1.10 高知における西洋音楽の普及運動
郷里へ帰ると、ある日新聞社の記者に誘われて、高知の女子師範にはじめて、西洋音楽の教師として赴任してきた門奈九里という女の先生の唱歌の練習を聴きに行った。高知では、当時西洋音楽というものが、極めて珍しかったのである。 私はこの音楽の練習を聴いていると、拍子のとり方からして間違っていることを感じ、これはいかん、ああいう間違った音楽を、土佐の人に教えられては、土佐に間違った音楽が普及してしまうと思い、校長の村岡某へこの旨を進言した。校長は私の言の如きには全く耳を傾けなかったので、私はその間違いを、技術の上で示そうと思い立ち、高知西洋音楽会なるものを組織した。この会には、男女二、三十人の音楽愛好家が集った。会場は高知の本町にあった満森徳治という弁護士の家であった。そこにはピアノがあった。またオルガンを持込んだり、色々の音楽の譜を集めた。私はこの音楽会の先生になって、軍歌だろうが、小学唱歌集だろうが、中等唱歌集だろうが、大いに歌って気勢を挙げた。ある時は、お寺を借りて音楽大会を催した。ピアノを持出し私がタクトを振って、指揮をした。土佐で西洋音楽会が開かれたのは、これが開闢かいびゃく以来はじめてであったので、大勢の人が好奇心にかられて参会した。 この間私は高知の延命館という一流の宿屋に陣取っていたので、大分散財した。かくて明治二十五年は高知で音楽のために狂奔しているうちに、夢のように過ぎてしまった。
後に上京した折、東京の音楽学校の校長をしていた村岡範為馳はんいち氏や、同校の有力者に運動して、優秀な音楽教師を土佐に送るよう懇請した結果、門奈さんは高知を去ることになった。 なんかひでぇ 増井俊之.icon