00109 - 20240103 ポロネーズ幻想
https://www.youtube.com/watch?v=-907LlYtMw0
朝から雨に煙る油山を見ながら、ショパンの幻想ポロネーズ(Chopin: Polonaise 7 In A Flat, Op. 61, "Polonaise Fantasie")を繰り返し聴いている。元旦から始まった暗澹たる気持ちを変える為には、この曲しかないと思ったのである。
幻想ポロネーズをコンサートで初めて聴いたのは、1983年のヴラディミール・ホロヴッツの初来日のときだった。幻想ポロネーズと表記されるが、正確にはポロネーズのリズムを含む幻想曲という方が正しい名前であると思う。演奏家と聴衆に想像力をかき立てる曲が幻想曲である。幻想ポロネーズは、2つのポロネーズを含む5つの主題と、特徴的な和音との組み合わせで、ショパンがもう少し長生きをしていたら新たなビアノ曲の分野を創り出していたかもしれないと感じさせる。幻想ポロネーズには、苦悩の中に見える希望、希望の中に見える苦悩が複雑に絡み合う。
来日初日のホロヴッツの演奏は、吉田秀和氏に「ひびわれた骨董」と厳しい批評を浴びたが、二日目の幻想ポロネーズは、若い頃の華やかな演奏からはテンポを落として、陰影深くショパンの苦悩を示すと同時に、それでも世界を切り拓らいていく静かな気概を感じさせた。心の奥深くに、若さと老熟とを沸き立たせる好演であった。その数年後、ショパンコンクールに突然現れたスタニスラフ・ブーニンの弾く幻想ポロネーズは、ホロヴッツの演奏に非常に似ていたので驚いたことを覚えている。インタビューで、ブーニンは、「幻想ボロネーズは、人生をかけて弾く曲」と答えていたことからもホロヴッツとの関係性を感じさせた。10年に渡る闘病の苦闘を乗り越えて、2023年秋の来日公演でも幻想ポロネーズを聴かしてくれた。
近年、多様性を重んじる議論が盛んであるが、その議論の重点に違和感を感じることが多々ある。多様性を声高に叫ぶ現在よりも遥か昔の昭和以前には、変わった人、変な人はたくさんいたのである。そんな人たちがたくさんいても社会に大きな亀裂が生じなかったのは、一人一人が、なんとか折りあいをつける術を身に付けていたからだと思う。多様性を認めるとは、他人は他人、自分は自分であり、お互いにどうやって上手くやっていくかを社会として形作ることにある。今は、それぞれの正義を叫ぶ人たちばかりで、ではどうやって折りあいをつけるかについて考えることがない。世の中は、白黒をつけることは難しいものである。その中間の灰色をとること自体もナンセンスである。多様な考え方や生き方を許容し、お互いに折りあいをつける制度こそが民主主義の根幹である。だから、民主主義を学ぶとは、そんな折りあいのつけ方の術を学ぶことである。勝ち誇る人がいるのではなく、皆、それぞれに抱える不満に耐える術を身に付けることが民主主義である。コミュニティを自分達の色に染めることだけを考えていないだろうか?自分と違う人たちを納得させるという時間や労力のかかる苦労を避けていることはないだろうか?
翻って、現在の教育の中で、果たして、そのような機会を提供しているだろうか?答えのある問いばかりを出していないだろうか?
答えがない問いにこそ、真理が潜んでいる。幻想は自分の内面に潜む大いなる希望の源泉であると信じている。