タイトルについて
必ずしもアルバムというフォーマットでリリースすることを想定して作られた楽曲ばかりではなかった
なのでアルバム全体を貫くメッセージのようなものは存在しない
なのでどちらかと言えば楽曲群に込めた思想よりも、8曲として圧縮をかけた時に立ち上がっている状態,状況をタイトルとして掲げた方がタイトルへの納得度が高いと感じた
実際このタイトルを冠した際に本アルバムへの認識が纏まった気がする
ダブルバインドという言葉が表すように、本作にはメインのメッセージとメタメッセージが同時的に発されており、それが時としては良い形で,もちろん時としては悪い形で現れている
最も分かりやすい形としては、本作にはエクスペリメンタルな態度とポップな態度が同時的に発されており、それはそもそもとして対立概念ではないため矛盾を生まないはずだが、結果として矛盾として機能してしまっている場合がある
これ自体はネガティブbutそれでいて何故リリースしているか、については別途話す
本来的には我々としては絶対条件としてエクスペリメンタルがあるはず
それはエレガンスを形成するために必要な状態だからである、という話はあるが、それもまた別途話す
一旦端的に言えば、エクスペリメンタルな試みがない音楽に単純に自分らが何かを感じることがない、それはシンプルにそういう属性だから という話をする
何を持ってエクスペリメンタルとするか、という定義はここでは避ける
が、エクスペリメンタルを取り巻く状況は常に芳しくない
我々としても「真に良い音楽」を作ればそれは確実に聴衆に届くはずだと信じてやっていきたいものだが、自分も散々「真に良い音楽」が全く人々に聞かれていない状況をこれまで見てきたし、それは単なる幻想でしかないと気づいてもいる
spotifyのアルゴリズムやプレイリストに組み込まれることを想定して曲を作るなどということは本当に極めて馬鹿げたことだと思いつつも、それを全く無視できないのも実情ではある
どちらかというとこれらの考えとそれに基づく結論は、必ずしも音楽業界の構造や聴衆のリテラシー、批評の現在などに対する批判ではない(もちろんそれらに対する批判が全くないわけでもない)
spotifyは馬鹿げているが、spotifyがあろうがなかろうが俺たちの音楽は愛されるとも言い切れないので、安易にspotifyやプレイリストカルチャーを批判したところで何も起きない
むしろ一番の問題は、そういう課題に対峙した際に安易に聴衆に働きかけやすい装置としてポップス的な語彙を拝借してしまうことだったりする
実際問題ポップス的な語彙はうま味調味料ほど勝手がよく万能な装置ではない
それはそれで形作るのが難しいものではある
正直に言えば本作を作り終えるまでは
大枠のジャンル的な観点で言うと、Double Bindの中核,ないし着想点はアンビエント
ただしアンビエントとした際にそのアトモスフェリックなムードや曲想を指しているのではない
むしろ自分はそういったアンビエントを軽蔑する
実際アンビエント作品の多くは人工的なものとの対比としてアンビエントを配置し、自然に何かしらの純粋性を見出すと同時にそこに存在している美的な資質のみを抽出しているような、言ってしまえばかなり人間中心主義的な自然解釈に基づいた作品が多い
軽井沢の夏で夜を過ごすと多種多様な生き物が四方八方からこちらの都合お構いなしに騒ぎ、そこに加えて風に伴う木々の揺れる音も混ざり合うわけで、端的に言えば相当に喧しいことに気付かされる
それはアンビエントミュージックにて経験される静謐さのイメージとは全く異なったもの
むしろ住宅地の夜の方がはるかに静か
なのでそこに対する批判精神として、アンビエントにリアリズムを付与するという発想でもって世界そのものの猥雑性に向き合っている
周期性を持った音もそうでない音も、継続的になる音もそうでない音も、パーカッシブな音も持続的な音も、人工的な音も自然物の音も鳴る、そしてそれらが鳴ること自体への介入不可能性
そういった考え
カクテルパーティー効果に若干触れてもいいかもしれない
実際問題自分らが上記的なコンセプトを持ちつつも、カクテルパーティー効果的にある特定の音素材を中核に据える、的な恣意性をそこに持ち込んだのは事実
その事実、詰まるところリアリズムに対する作為
それ自体がアンビエントの語源,ambiの意味である二者間の往来へと意図せず接近するきっかけになっている
アンビエントのリアリズムと作為が混ざり合っている箇所、一方だけが強調されている箇所
あとこれは批評的なテキストではないとどこかでちゃんと提示しておきたい
更に言えば自分たちの考えを展開するために恣意的に物事を抽象化して解釈していることも提示しておきたい
防衛策ではあるが、実際音楽制作するということがそこまでシンプルなものではないということも理解していると提示する
なのであくまで主観的に自分たちの活動をどう捉えているか、みたいなところに軸がある、と
(エレガントフレームワークスは全く別物)
以下正式な文章の形(大体1万字くらいには抑える)
前置き
改めて、自分達aiverは2025年9月3日に初のアルバム作品『Double Bind』をリリースした。
aiverは2021年末にリリースしたPause Cattiとの共作『growl』以来 実に4年弱という大変長い期間リリースを行なっていなかったわけではあるが、その間自分達は制作に勤しんでいなかったわけではなくむしろこれまで以上に懸命に音楽制作と、それを取り巻く諸々に取り組んでいたように思う。それでいて何故こうも期間が空いたのかについては追って深く説明していこうと思うが、差し当たり簡潔に理由を述べるとすれば"本作をリリースして以降のアプローチについて大変に悩んでいたから"が最も的確なものとなる。
{(この短期連載を通じて、aiverは音楽を中心とした活動の中で何をやりたいと考えていて、かつ何を自分たちに期待しているのかを明示していくつもりである。)音楽それ自体も大概雄弁であると私は少なくとも思っているが、一方で音楽よりも言葉で語る方が伝えやすい内容も確かにあると思っており、だからこそそういった内容はこうした文章のフォーマットで伝えることを望んでいる。
どのような形で自分達の狙いを理解してもらうのが良いかと幾らか考えたが、まずは変に議論の射程を広げすぎることをせず、本作のタイトルがどういった意味を持っているのか、並びに自分達がどういった意図を持ってこのタイトルを付与したのかを説明することにした。言ってしまえばセルフライナーノーツに近い文章となるが、一方で一つ断りを入れておくと各楽曲の解説などは本文にて記載はしないし、恐らくだが今後も(少なくとも自分達主導の元では)しない予定である。ミクロな部分にまで説明が及んでしまうとどうしても聞き手/読み手としてはその説明情報を前提としてしまうきらいがあることは個人的な経験を踏まえてもあると考えており、それは「聞き方の限定」に繋がる可能性があることを懸念してのことである。
(もちろん楽曲を如何に解釈するかについては聴衆側に自由が与えられており、その意味で自分達は本作の聞き方を限定することを良しとはしない。一方で本作が今後の活動への手続きとなっていることもまた事実であり、その手続き部分だけは理解していただいた上で聞いてもらいたいと考えている。)}
akashi.icon ここ全体がもう少しシンプルに圧縮できるはず
改変
↓
要するにここで俺としては文章を書いてることを何かしらの意味で正当化したいわけである
正当化、というよりも何故それこそ音楽を出したばかりなのに語る必要があるのかを説明する
上記の悩みに対する一つの答えとして、本章を含む4つの章に分けた文章を短期連載的に順次公開していく予定である。この短期連載を通して、我々は『Double Bind』と、それに加えた
aiverにとっての『Double Bind』の立ち位置に補助線を与えることを狙っている。
前置きが長くなってしまったが、ようやく本題に入ろうと思う。
そもそもとして自分達はアルバムというフォーマットに構成されることを念頭に置いた上で楽曲を制作していたわけではなかったので、『Double Bind』に収録される楽曲には何かしら統一的なメッセージやコンセプトがあるわけではないことを明言しておく*1。そのことを踏まえた上で、どちらかと言えば楽曲群に込めた思想よりも、散漫に作られた8曲をアルバムへと圧縮する際して初めて自覚した状態,状況をタイトルとして掲げた方がタイトルへの納得度が高いと感じた。そういった経緯で本作を取り巻いた状況を整理していく中でダブルバインドという言葉に触れ、タイトルとして冠するに至った。
*1 それでいて何故アルバムというフォーマットでのリリースをすることになったのかについて説明しておくと、自分達の楽曲が構造的な意味において世にある音楽(の平均値)とは異なる構造を採用しており、それに伴ってどうしても幾らか聞きづらさをもたらすものであり、だからこそシングルではなくアルバムという(シングルと比較すると)長時間聞き手を拘束する形でもって自分達が提案する構造に慣れてもらうことが必要であると考えたためである
ダブルバインドはアメリカの学者グレゴリー・ベイトソンが提唱した概念/造語であり、非常に雑ではあるがWikipediaからその意味を引用すると"ある人が、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれること"を指すものであるとされている。ダブルバインドがどういった概念,状態であるかの説明をするとそれだけで随分な文量になってしまいそうであるし、更に言えば自分達も厳密な研究を行った上で本タイトルを付けたわけではないので抽象的に理解していただければそれで十分である。
それでは一体どのような形で本作においてダブルバインドが発生しているのかを説明していきたいが、一旦話題を変えて本作の中核を成した音楽的概念について触れておく。それはアンビエントである。とはいえ、自分達が想定したアンビエントはいわゆるアトモスフェリックなムードやリラックス感のあるサウンドテクスチャーを持ったアンビエント、あるいはジャンルとしてアンビエント・ミュージックではなく、むしろリアリズムとしてのアンビエントにある。仮想敵化することを目的とした上でやや抽象化している事実を認めた上で言えば、今日において聞かれる多くのアンビエント作品はドローン的なサウンドや最近で言えばグラニュラー的なテクスチャーと躍動感のあるリズムトラックの不在、そして幾らかロマン主義的なメロディなどといった要素の組み合わせによって構成されているものが多い。
akashi.iconここもうちょっと詰める
自分が大学院生として音楽の研究に勤しんでいた過程でアンビエントミュージックに関心を持ち始めたのだが、当時の自分の主たる疑問は何故アンビエント・ミュージックはこうも静かなのか、といったものであった。というのも、それこそ私が大学院に通っていた頃に草木に覆い囲まれた家屋で一晩を過ごす機会があったのだが、自分の想像を遥かに上回る喧しさで多種多様な生物や草木が音を立てていたのであり、それこそがアンビエントだと実感したからである。
akashi.icon一旦雑
*この辺りの議論はティモシー・モートンのエコミメーシスあたりを読むとよく整理ができるかもしれないが、本作制作時期においてモートンの論は参照していなかった
もちろん"アンビエント・ミュージック"の成り立ちについて知る中で、どのようなものがアンビエント(・ミュージック)として扱われてきたかについては理解したものの、上記の疑問は完全には拭い切れなかった。実際問題この問いは学術的なそれというよりも私が個人的に感じる問いであるとは理解しているが、それにしてもアンビエント・ミュージックの中でアンビエントが不在化している、もしくはアンビエント・ミュージックは今やアンビエンスをその立脚点としておらずアンビエント・ミュージックのクリシェをただ量産しているだけではないかと考えていた。
このような問いに基づき、それでは一体リアリズムに根差したアンビエント(・ミュージック)とは如何なるものなのかと考えるに至ったわけだが、少なくとも頭の中で想像されるそれは周期性を持った音もそうでない音も、継続的になる音もそうでない音も、パーカッシブな音も持続的な音も、人工的な音も自然物の音も鳴っているわけだし、それらは時に相互作用的に鳴ることもあればそうでないこともある といった具合で非常に乱雑/猥雑であると言える。そのような認識の元でアンビエント的なもの、の制作を始めたものの、何かしらの規則性や法則性を組み込まない限りそれが(ポピュラー)音楽作品として成立しづらいと感じ始め、幾らか恣意的に、恣意性のある音を組み込んで音楽的に成り立たせることを狙った。
そのコンセプチュアルなスタンスと現実的な対応策に伴う企画倒れ性、
その異なる二つの性質が融和するのではなく、むしろ分離していること、それに伴い矛盾を引き起こしていること。
それ自体が作品全体を貫いて(しまって)いる、と気付いた時にダブルバインドというタームをタイトルにすることを思いついた。ダブルバインドというタイトルに対する納得感はむしろ自分達にとっての作品に対する不信感を深めたように思う。矛盾したもの、狙い通りに至らなかったことを世に提示することはどうなのだろうか、という問いが頭の中にこびりつき始めた。ここで冒頭の"本作をリリースして以降のアプローチについて大変に悩んでいたから"に戻る。
我々は『Double Bind』の完成と同時に、『Double Bind』で果たせなかったものを果たす必要がある、と考えるようになったところで一旦本章を締めくくる。次章は我々の制作における最も重要な指標として立ち上がったエレガンスについて話そうと思う。
鳴ること自体への介入不可能性