エクスペリメンタルであること→エレガントであることの変遷としての1st
エクスペリメンタルであること→エレガントであることの変遷としての1st v2
タイトルについて で話しているように1stにおける重要指標としてエクスペリメンタル性が重要だったわけだが、1stの制作がスタックしている頃にあまりにもエクスペリメンタルという言葉では抽象度が高いので、もう少しスコープを絞った概念を持ち込みたい気持ちがあった
言ってみれば我々というコミュニティ内で機能するバズワードのようなもの
その結果として自分らとしての最重要指標がエクスペリメンタルからエレガンスへと置き換わった
実際エクスペリメンタル、とは言っても多種多様なエクスペリメンタリズムがあり、その中でももちろん選択する音の傾向のようなものは存在するのだが、エクスペリメンタルとはいえ全く愛せない楽曲というものを生産されてた場合があった
実際問題1stは全体としてはエレガントと言い切れない作品である
が、エレガンスが浮上している瞬間もある
更に言えば本作の制作を通してでしかエレガンスが最重要指標であると断定できるまでに至らなかった
エレガンスについての詳細は別途行う
が、この時点でエレガンスはある種の独自概念であることは伝えておく
所謂洗練性とかの問題では全くない
洗練性とかの話になると趣味判断になる
結局趣味判断を軸に音楽を語るとボリュームゾーンが大きい趣味性を持った音楽が勝つ、という話で終わる
エレガンスはむしろ状態に近い
エレガントであることを勇気の問題として捉える
実際問題エクスペリメンタルであることへの信頼が揺らいだのは2022年ごろに幾らかライブイベントに出演していた頃
単純に現場で大滑りしていた
実際には全てのイベントで大滑りしていたわけではないが、ややポップス的な濃度が高い現場だと激滑りしていた感
まあ自分らの曲が直感的な判断の上で快楽的ではない部分も多分にあるので仕方ない部分は認めつつ、シンプルにトラップビートの音楽よりも訴求力がなさすぎて負け戦感が強かった
この辺りで自分らの楽曲に対する見直しをしようとしていた
この見直しの結果エレガント概念を発明したが、それと同時に自信も喪失していた
そもそも何でここまでリリースに時間がかかったのかの説明をここでする
例えばライブでの苦境だったり、エレガントとは?という問いが生まれたことも踏まえる
結局のところまあリリースして、例えばそれが上手く人々に届いたとしても何かしら限界があるのではないか、的な思考に陥っていた
詰まるところマーケ予算が潤沢にあるわけでもなければマーケに関するスペシャリストでもない+アテンションを稼ぎやすい活動スタイルでもない,みたいなところから考えるに一過性の波を作ってもしょうがない
実質的に投資効果が全く見込めない
かつそれがどのようにステップアップするのかも全く分からんと言えば分からん
まあもちろん狭いところで狭くじっくり活動するのも一つのスタイルではあるしそれはそれで全く否定しない
言ってしまえば自分らは売れようが売れまいが音楽を捨てるという選択は取らない類の人種ではある
実際問題音楽が実存に多様に絡みついているタイプなので、それが成果を上げるかどうかは瑣末な問題ではある
とはいえ自分らの想定よりも幾らか聞かれて欲しいと思うのも事実,それは素朴な自己肯定感のためでもあるし、活動が開かれることそれ自体への高揚でもある
まあここはそこまで丁寧に説明する必要が現段階ではない。我々は作品が閉ざされることを望んでいないし、特にリスナーを限定したいとも思ってもいない。そういうスタンスである、と知ってもらえればそれで良い
もっと開かれた届け方をするにはある程度ポピュラーミュージックのコンテクストで聞けるものにするのがもっとも効率が良いが、それは自分らの美学とは異なる
多分多くの人がこのジレンマと戦っている
ポップス的な語法を自分の曲に採用することを良しとはしないが、そうでもしない限りメインのマーケティングフィールドであるSNSorサブスクサービスでの浮上が見込みづらいこと
恐らくだが全くと言っていいほどポピュラーミュージックの語法の影響を受けていない人、というものはなかなか存在していない(というか影響を全く受けずに音楽制作に参入すること自体が難しい)ので、その意味では誰もが市場における音楽的な需要との接点を持っている
自分が持っている音楽的な資質と市場における需要との重なりをどこまで大きくするか,というグラデーションのコントロールによって聞かれる度合いがコントロールできる(これはざっくりとした話なので厳密には捉えないでほしさもある)
ただしこれは市場におけるレピュテーションに価値を置いた場合の話である
が、エレガント軸になった瞬間に市場がどうであるか、は全く気にならなくなった
実際にそれまでの自分たちはある程度新譜を追う、的な態度は持っていたがむしろエレガント路線に切り替えてからはマジで信用できる音楽をただひたすら聞く、そして更に言えばどちらかというと新しいものよりも古いものに集中して聞くようになった
これはまあどこまで説明するか、だが新しい音楽は自分たちが思う落とし穴にハマっているケースが多く聞くに耐えない場合が多いからではある
エレガントを軸にした瞬間にイメージとしては下に対するアプローチではなく上に対するアプローチになった
多分これはイメージ図が必要だが、ポピュリズム的なアプローチではなく高次なものへとアクセスすることにフルリソースを割く、的な態度への変容
なので制作的な態度としては狭い(現行のポップスとして機能する)ゾーンへとオプティマイズするのではなく、広大な次元へと音楽を寄せることが大事
以下正式な文章の形(大体1万字くらいには抑える)
既に触れた通りではあるが、1stアルバムの制作自体は大まかには2022年頃には終わっていたし、最終的な調整それ自体を含めても2023年には完了していた。それでは当然のことながら何故2023年にリリースをしなかったのか、という問いが向けられるだろう。その問いに対する答えは二つの軸が存在しており、一つは外的な要因、もう一つは内(部)的な要因に依るものとなる。
まず外的な要因として。
2022年にライブ出演オファーが幾つかあったのだが、その内の大凡半分くらいのオファーがブッキング的な意味での齟齬を感じさせるものであった。実際インディーの中でも更に小箱的な環境でライブをするとある種の(スタイル的な意味でもクオリティ的な意味でも)ごちゃ混ぜ状態になることは珍しくないが、一旦クオリティ的な観点は一切割愛して(というのも自分らのクオリティに対する疑いは実際常にあるからである)、スタイル的な意味での齟齬を感じていた。
それはジャンル的な意味での齟齬であるというよりもスタイル的なものである、とあえて強調して言うが、
ユース的なもの、と一旦抽象化しているが、それはもう少し言うと現行のトレンドに対しての接点の広さと言っていいかもしれない。トレンドに対しての接点、というとやや意識したトレンド狙いを行っているようなニュアンスで解釈されるかもしれないが、むしろ現代に生きている以上何かしらの形で現代のトレンドと接点を持つのが自然であるし、そのトレンドに対する共感性の強さなどにもよって自然と接点が広がることも往々にしてある。
実際問題自分が曲を作っていても現代的なトレンドと共振する部分が全くないとは言い難い訳であるし、実際『Double Bind』に収録されている楽曲にもその素養が立ち現れている瞬間が多々ある。トレンドとの共振、それ自体は完全な回避は不可能だとしても、それが若さを伴って出力されているのであればそれは問題であると認識している。それはいわゆる一般化される問題ではないかもしれないが、自分にとっては絶大な意味を伴っている問題である。何故なら自分が若さの伴った表現というものを美的であると判断することが(少なくとも今の自分では)できないからである。
そのユース的なもの、と対峙した際に当初はある程度ユース的なものを取り入れる形で対峙するのが良いのではないかと議論したこともあるにはあったが、結果としてその路線は採用しないことにした。端的に言えば自分らの美学を毀損していると前提的に理解していながらもある要素を取り入れるようなことをしてまで
ユース