読書記録①内山節・著『子どもたちの時間-山村から教育をみる』岩波書店,1996.
ハイジは都会で鬱になり、クララは山村で歩き出す。私は都市で暮らし、歩き続ける
ふと見かけて手にした本が、私の思う、時間や自己の捉え方に示唆を与えてくれた。
その本は内山節・著『子どもたちの時間-山村から教育をみる』岩波書店,1996.
前半部では、フランスの山村の子どもたちを観察して、こどもと社会との関わりを記していた。
山村のこどもたちは、暮らしの中に小さな仕事を持ち、その仕事の責任範囲は年齢が上がるとともに大人たちから委譲される。最終的に、大人たちの姿から、将来の自分の役割が何であるかを理解して、村に必要な役割と仕事が継承され、担われていくという。
後半部では、前半部で語られた季節が巡りゆく中で人の役割が循環していく村の時間の概念と対比し、近代の都市の働き方や、時間管理を重要視する教育が導入された以後に生まれた、直線的に消費されていく時間概念を指摘する。
直線的な時間概念は、単に時間を消費するだけでなく、その時間と共に「自分」という存在も変化させなければならないので、自己すら”消費”の対象になる。
現代社会では、人々はすぐに使い捨てにされ、役割のない無用ものとなってしまわぬよう「自分経営」と呼ばれる自己の存在意義と時間をコントロールしようと躍起になる。自分経営がどんなに成功しても、一時的な満足でしかなく、直線的な時間消費社会では新しいものが古いものを淘汰し、自分自身も古いものになっていく不安と常に闘い続けなければならない。それが、現代の大人、そしてそのような社会に教育を施される、こどもたちの時間概念だ。
昨年2022年の夏、人にたっぷり自分のことを聞いてもらい、自分の心の奥底から出てきた剥き出しの欲望は、「私は、みんなの時間を止めたい」だった。
それまでの数年、「余裕や余白を作って立ち止まる時間を過ごしませんか?」みたいな物言いをしていた。ただ、疲弊した世の中で「余白が大事だよね」という訴えかけは、「休むこともしなければいけないこと」というプレッシャーになり、正直、鬱陶しいなと自分で思うところもあった。
何より、プレッシャーを与えてまで、
「余白が大事」って自分が人に本当に伝えたいことなのだろうか?
とりあえず他の表現が見当たらないまま、
「余白を大事に」と標語のように唱えるのは、やめた。
本でも言及されていたが、「余暇」が、「労働」の対概念として誕生したことはよく知られている。
産業革命により、資本家が賃金労働者を雇い、賃金は時間を基準に支払われる。山村のように、暮らしの循環の中にあった「仕事」は、生活から切り離された「労働時間」となり、その労働時間を終え、疲れた頭と体を休ませたり、あるいは別の刺激で疲れから逃れるための「余暇」の時間が必要となる。だが、労働と対となった余暇の時間は、生産の反対であり浪費的でどこか虚しさが伴う。
「暮らしに余白を」という呼びかけは、「労働」と「余暇」がセットになった世界線において、”暮らし”という循環する時間を取り戻すための呼びかけではなく、「余暇を充実させよう」という程度の呼びかけにしかならない。
だから私は、自分がこの呼びかけをすることをやめたのだ。
「労働」と「余暇」がセットになった世界線に、加担していないか?と。
それで違和感を持つようになったのだ、と。
私の奥底の欲望である「私は、みんなの時間を止めたい」とは、
非・時間であり、非・労働の宣言なのだ。
つまりは、非・現実的な二重思考の呼びかけである。
私自身、まごうことなく、消費する直線的な時間で動く社会に生きている。時間でお金をいただく仕事もしている。そこから得たお金で生活している。それ自体はやすやすと変えられないし、その恩恵あっての私の日々だ。
ところで『子どもたちの時間』で記される山村の暮らしを「アルプスの少女ハイジ」と照らし合わせてみると、ハイジは都会で鬱になり、クララは山村で歩き出すというストーリーはとても秀逸だったのだなと思う。
「アルプスの少女ハイジ」のなかで、都会に住み始め教育を受けるようになったハイジは、ストレスから夢遊病になってしまうのだ。
一方、足を患い歩けなかったクララは、山村でハイジやペーター、偏屈だが物知りで心優しいお爺さんと過ごす中で、自分が「歩ける」ということに気がつく。
ハイジの都会での”不幸”は、ハイジを教育するロッテンマイヤーが単純に悪いわけではない。ロッテンマイヤー先生は時に厳しくもあるが、ハイジのためを思い、その当時、将来のために必要とされていた当然の教育をしたまでに過ぎない。むしろ近代に生きる女性が自立して生きるために必要な教養を身につけるという側面もあったはずだ。
私の研究テーマの一つは「都市空間における女性の居場所」だ。
私は、消費・浪費を前提とした近代社会を批判的に捉える一方で、
近代の都市空間は、教育を受けて自立を志す女性が、村での名前のついた役割と循環する時間から解放される場でもあったと解釈している。
都市空間で女性たちは、名前のつかない自分を発見し、自分だけの居場所や自己表現を創造できたのではないか?
「どこでもない場所」で、「何者でもない私」として、自由を手にして浮遊できる。この仮説のもと、1920〜30年代を主として都市の片隅に生きる、ジェンダー社会の外部を希求する近代女性たちの姿を、文学作品を通して分析してきた。
おそらく、私は、これからも、都市で歩き続ける。
私は、時間の中に生き、仕事をする。
同時に、非・時間であり、非・労働の宣言をし、暮らしを取り戻したい。
それが、私の時間概念だ。