掛け算
順序問題は毎回関心を引くのだが、はっきり言ってこれは結論の出きった話であり、
本質的には児童を守るため、順序派残党をいかに殲滅するか(義務教育から遠ざけるか)という話でしかない。
これはもう政治と軍事(?)の話であり、こんなことに私生活の認知コストを割き続けるのはちょっと勿体ない...
その決別のために、自身の意見を一旦まとめておき、もうコレについて必要以上に煩うことがないようにしておきたい。
そもそもの掛け算の順序問題とは
小学校算数教育において、整数ないし正実数の積として問題の答えないしその一部が与えられる問題について、
積の順序によって計算式が誤答扱いされることが度々発生する。これに疑義を抱いた保護者によって、
その採点がtwitterなどにアップされ、そこから数百〜数千ツイートに及ぶ順序擁護派/否定派による応酬がなされる。
毎年新しい小学生が掛け算を習うため、この件は毎年(あるいは年中?)話題になり、もはや風物詩となりつつある。
自分の観測範囲では、検索結果上の勢力図版は概ね否定派優勢であるが、完全に順序派が駆逐されるには至ってはいない。
毎年一定数の順序擁護派が出現し、不毛なレスバが勃発し、膨大な認知コストが投入される。
一部のインテリツイッタラーは熱心にこの議論を追跡しており、問題点もかなり整理されてきているのだが、
流石に毎年のように発生する順序擁護派との不毛な論戦に飽き飽きしており、
強固な順序擁護派とのブロック合戦に発展することもしばしばである(?)
採点の対象となっているのは、典型的には正整数の積の式である。つまり、正整数のみからなるA×B = ...という立式について、
ABの「想定順序」が存在するとされ、それに反する記述解答が不正解とみなされている。
本件に対する自分の立場は明確である。
正数・整数・実数による積の逆順序を誤答とするまともに擁護可能な根拠は一切なく、
このような採点規準は即刻やめ、実数(一般に可換環)の積について任意の順序を正答とするべきである。
つまり順当に順序反対派である。掛け算順序派が少数ながらしつこく跋扈する理由は謎であるが、
ある種の閉じたコミュニティーでは曖昧な正誤判断規準を恣意的に運用することが
一種の権威として維持される可能性はあると考えている。どのようにしてこれを駆逐できるのかわからない。
毎年きちんと順序派への反論と詭弁のアーカイビングを続けている一部ツイッタラーは本当に(体力が)すごいな...
と思うと同時に、流石に不毛感があって自分はついていけない、でも見るたびに義憤感情はあるので
はよ順序派だけがかかる謎の病気が発生して全滅してくれ...僕はもうまとめを書いてこの話題から卒業したい...
という気持ちでこれを書いている。
不毛感とは言ったが、実のところ掛け算順序派を教育業界から絶滅させる/追放することはとても意義のあることだと思っている。ただ自分にはそのための有効な手段やインセンティブや無償で費やせる心身の体力の余裕がないということである。
いくつかの前提
以下のことがらはわざわざ述べるまでもないことだが、立場を明らかにするために述べておく。前提というが、これ自体がすでに順序派への反論の一部になっているかもしれない。順序否定派もヒヨって順序派の議論を一部受け入れたりしてしまっているのを見かけるので、そうした中途半端な逃げ場を潰す、あるいはボーダー層に別に妥協しなくてもいいぜ!勇気出せよ!ってエールを送る意味もあります。
数学と算数は別物ではなく、算数は数学の初等的/実践的サブセットであり、数学に反する算数というものは存在しない。
あるとしたらそのような算数科目の意義に重大な疑義が生じる。基本的に互換性はある。
同様に、数学と算数教育も異質なものではない。数学に反する算数教育というものは存在しない。
そのような算数科目の意義に重大な疑義が(略
数学が言及しない教育上の事情というものはありえるが、それが数学的内容に反することはありえない。
「順序派は教育の話をしている」「反対派は数学の話をしている」という典型的詭弁調停がしばし登場するのでここでこれを潰しておく。この問題は「数学かつ教育」の話であり、そのような雑な境界線で陣営を分けたところで相対主義的な譲歩の余地が発生するようなものではない。
件の問題は国語の問題ではない。
いかなる言語においてもこれと同種の問題を考えることができる。本件に「国語」特有の構成要件は存在しない。
算術の定義/計算/解法といった掛け算の主題はいずれも言語表現に基づいているのではない。「言語もまたそうしたものを表現できる」というだけである。算術のあれこれを言語が表現できるのであって、算術のあれこれが言語からくるのではない。
件の問題は社会性の問題ではない。
「長いものに巻かれろ」「社会は理不尽なもの」「教室の統率」「話を聞いているかどうか」といった話は論点のすり替えであるし、この問題の加害者/犠牲者を同時に蔑ろにする立場である。教育者サイドがこれを発するのは悪質な開き直りである。
一般に、権威に阿るべきではないし、理不尽を許容すべきではないし、数学を統率のダシに使うべきではない。
数学を身につけることが目的であって、授業を聞くことは従属的手段である。
「この者の知識は私の授業から授かったものであるべきだ(そのことを確認できるべきだ)」などと思うべきではない。
件の問題は数学の、しかもその活用上の利便性にかかわる問題である。
積によって何かの総量を求める操作は、専門性の程度を問わず至るところで発生する。その意味で極めて実践的である。
順序による誤答扱いは、この操作の自由度を阻害し、実践上の障害になりえる。
小学校以降の実社会の運用では、掛け算を逆にしたところで問題にならない。
レシートの記載や、簿記での記入方法等の慣習で、単価と個数の欄が固定されていることは大いにあり得るが、それは単に状況が限られているため、曖昧さなく固定することができ、それが慣習として定着にしたに過ぎない。ある慣習は、逆の慣習もありえるため(掛け算に限らず)慣習そのものはいかなる意味でもそうあることの根拠になりえない。
特定の明確な慣習が確立している狭い分野で、入力欄を間違えることは、掛け算順序の問題とは全く関係がない。殆どの場合、それは業界慣習を知らないということであり、一般的な掛け算の運用能力とは全く関係がない。
したがって、「「3個を5人」を「5×3」と書くものは、状況を理解しておらずトラブルになるだろう」というのは順序を肯定する理由にならない。まさしく順序否定派は「「3個を5人」という状況を完全に理解した上で「5×3」と立式し正しい結果を得られる」というロジックを擁護する。
自然科学や工学では2つどころか3,4,5...個の量の積を平気で考えるが、したがって厳格な慣習など決めようもなく、当然順序はその人の好き好きであり、もちろん問題も起きていない。
教科書ないし指導要領ないし指導要領解説での記述の有無は正当性を保証しない。
書いてあろうがなかろうが、数学的に正しいものは正しく、間違っているものは間違っている。
一般的に、数学および算数(というかいかなる科目でも)の記述解答は、論拠ないし過程が論理的に正しく、かつ最終出力が合っている(目的が達成されている)ならば、誤答とみなすことはできない。
誤答とみなすためには、それが間違っていることを採点者側が指摘/証明できなくてはならない。
したがって特に採点者の想定解答と異なるというだけで誤答にすることはできない。どうしても誤答とする場合は、想定解答への"十分かつ明確な"誘導ないし注釈が与えられている必要がある。
「順序によって片方の解答を誤答とみなすこと」が問題とされており、掛け算そのものの導入時に乗数被乗数を左右に固定した形で紹介ないし導入することを否定するものではない。
あくまで「逆順解答を誤答とすることはできない」というのが順序反対派の主張であり、「一方の順序で教えること」自体は反対されていない。
反対派は「(授業で扱った)一方の順序"だけ"を正答とし一方を誤答とする」という採点規準に反対している。
よって、ここでの「順序派」「順序擁護派」とは、「逆順解答を誤答とする(ことを擁護する)派」の意味である。
このあたりは意図的かわからないが双方ストローマン論法に陥りがちな点であるので特に留意する必要がある。
「各項に単位(次元)をつけよう」というのは多少問題を改善するが、完全ではない。
強固な順序擁護派は、単位を付けたとしても特定の順番を主張することがありえるため、完全な回避策にならない。
児童が単位や次元を先回り学習して正確に運用する必要があり、つまりは被害者が負担を負うことになる。
本論では、主に単位記載のない正数乗算についての掛け算順序を議論する。
教育学上の配慮や想定、発達上の配慮は、学問的正確さを損ねてよい理由にはならない。
これは前者を配慮しないというわけではなく、「正確な知識を」「発達段階に応じて伝授する」というのが教育なので、教育学上/発達段階の都合によって、ある種の手段や内容の教授が制限をうけることは当然あり得るが、間違ったフィードバックを与えることを正当化することはできない。そして反対派は「順序による誤答扱い」は間違った(それゆえに有害な)フィードバックであると考えている。
数学基礎論や数理論理学はこの件とはほぼ関係がない。
いわゆるペアノ算術としての正数演算の構成ないしそれと類似の議論が擁護派によって持ち出される場合があるが、ほぼ無関係である。
数学基礎論やペアノ公理の確立以前から算術は当然存在していて破綻なく活用されている。
公理化すれば公理が正当性の源泉となるわけではない。実際には逆ですらある。つまり、現実に機能している理論体系を再現できるものが「正しい」公理である。
さらに、公理や定式化は一意でない。公理的に定義された正数上の乗算を帰納的に定義するにしても、どちらの引数順序でも同じ乗算を構成できる(交換法則が成り立つ)ため、非対称性の根拠にならない。せいぜいが互換性のある流儀の違いにしかならず、流儀の違いは誤答の根拠にならない。
高等数学で教えられる実数以外の非可換環が実際に非可換であることはなんの関係もない。
今は小学校の実数ないし正数の掛け算の話をしている。
割り算が左右非対称であることも何も関係ない。
実数ないし正数の掛け算の話をしているっつってんだろ。
外積が左右非対称であることも何も関係ない。
実数ないし正数の掛け算の話をしているっつってんだろダボがよ。
従って「後で掛け算以外/実数以外の演算を教える時に備えて...」というパターンの擁護は例外なく詭弁である。あまりにもバカバカしいためここでは議論にしない。演算の種類を混同する誤解に対して教えるべきは演算の違いであり、掛け算の順序ではない。
学校教員は多忙である。順序否定派の主張を実施することによって、学校教員の仕事が大幅に増えることは基本的に無い。
順序によらず、必要な2数の掛け算の立式ができていれば正答とするので、むしろ判断要素は減りうる。
よくわかってない前提
掛け算順序を強制する(想定順序以外を誤答にする)方が学習能率が上がるという根拠はない?
自分は詳しくないのでわからない。このあたりは黒木さんのまとめとかに書いてないか...?
何れにせよ順序派がそんなに有益ならもっと多数勢力になっていてもおかしくないので、そういうことだという認識。
「指導要領のせいであり、現場教員ないし教育関係者はこの件に逆らえない」というわけではない?
これもよくわからない。仮にそうだったとしても指導要領が焚書対象に加わるだけだが....
「読み方によっては順序の推奨とも取れる記述はあるが、明記はされていない」くらいのラインという認識。
つまり、現場が順序強制をボイコットできる余地は十分にある。
直接な強制力はなくとも、少数ながら強固な順序派が比較的初等教育関係者に相対的に多く見られる一方で、大学以降の高等教育関係者には非常に稀な印象(私見)があり、教育業界になんらかの固有の順序派ドグマの発生源があることが疑われる。自分にはこのあたりの歴史を追う気はないので他所に任せる。
本題
掛け算順序反対の立場は、言ってしまえば「不当な誤答扱いをやめろ」つまり、採点における誤答判定を正しく緩和しろという立場なので、より厳しい誤答判定を行っている順序派の提示する議論を参照しないと説明できない。そこで、典型的な順序を擁護する論法を挙げ、それに反駁する形で反対派の見解を述べる。
よく見られる順序擁護の議論に「逆順序解答は掛け算の意味を理解していない」というものがある。
つまり、
なんらかの想定される「掛け算の意味」というものがあり、
これを了解していることが正答扱いするための必要条件であり、
逆順序解答は生徒がそれを了解していない証拠とみなせる
という論法である。
例えば、
「一人当たり4個のりんごを6人に配るときのりんごの総数は?」という問題が出題されたとしよう。
想定解は
4×6 = 24、24個
のようになり、
6×4 = 24、24個
は順序派によっては誤答扱いになりえる。
その理由は、掛け算が「被除数×乗数」のとき、問題状況から与えられる「単位量/1つあたりの量」というのがあり、被乗数はこの「単位量」が割り当てられなくてはならないというものである。
単位量/1つあたり量を特別扱いする理由は、彼らの掛け算の定義による。
これはペアノ公理的な乗算の定義に近い。彼らの言い分によれば
4x6 = 4+4+4+4+4+4
が掛け算の定義であり、したがって
6x4 = 6+6+6+6
とは違うということである。
つまり、掛け算を n x m = n x (m-1) + n によって定義しており、
再帰的に減少する引数を乗数、残りを被乗数としたとき、被乗数が左に来る定義を採用している。
問題状況には「一人当たり4個のりんご」という記述があり、この問題は4の繰り返し加法で求まることがわかる。
この「一人当たり4個」を「1つあたり量」とし、これが繰り返し加算されるように、掛け算の左側に置くと、
実際に4の繰り返し加算が行われ、総数がもとまる。したがって、
「一人あたり4個で、それが6人いるから、4×6 =24個」というのが想定解になっている。
このような理由から、6×4 = 24を回答した子供は、問題の状況を転倒して理解しているか、または理解していない、
したがってこれを誤答として扱う、という次第となる。
抽象化を断念させる「掛け算の意味」/数式から怪物を幻視する性癖
さて、上の論法では「掛け算の意味」というタームが現れたが、例示中その説明はなされなかった。
実際、順序擁護派が称する「掛け算の意味」というのものの実体は極めて曖昧で理解困難なものである。
(なので自分にはエミュレートすることすらできなかった) 実際、この「掛け算の意味」というのは筋の悪い概念なのだが、
そのことを説明する前に、まず標準的な「数式の意味」がどういうものか述べておこう。
明らかな事実として、標準的な数学および算数では、
4×6 = 4+4+4+4+4+4 = 6x4 =6+6+6+6 = 24
である。したがってこの4項の標準的な「意味」はすべて同じ、「24(個)」である。
ここで、標準的な式の「意味」とは、
「それらが等号で結ばれるならば必ず同じである(そして逆も成り立つ)ような何らかの概念」とする。
この発想は数理論理学でも継承されているごく自然な観点である。
そもそもなぜ「等式変形」が数学的「計算」の1部門を成しているかといえば、
その「意味」が保たれるからである。
また、再帰引数を右に取った乗算をx_1、左に取った乗算をx_2としてみよう。
つまり、
n x_1 m = n x_1 (m-1) + n
n x_2 m = (n-1) x_2 m + m
である。定義から明らかに
n x_1 m = m x_2 n
であるが、 結局どちらにおいても交換法則が成り立つため、n x_1 m = m x_1 n = n x_2 m = m x_2 n であり、
やはり同じ「意味」となる。
標準的な「数式の意味」では、掛け算の順序による違いを発生させることができず、当然誤答の根拠にもならない。
したがって、順序擁護派の言うところの「掛け算の意味」とは、
上記の意味で標準的な「意味」よりも大きな(細やかな)何かを指していることになる。
この擁護派が想定している式の「意味」の追加差分がなんなのか、というのは、擁護派の議論を眺めても判然としない。
しかしそれが何であれ、この問題に正答するにあたって不要な観点である。
というのも、この問題は「総数」を問うているからである。
「ある物の総数に関心があり、4,6という数字が出現し、総数がそれらの乗算で計算可能な問題状況」の無限集合を$ Q(4,6,24)と記そう。例えば$ Q(4,6,24)には
「一人4個のりんごを6人に配る時の総数は?」「6人にえんぴつ4本づつ配る時の総数は?」「6人で餃子を4個づつ食べるときの総数は」「4店舗から消しゴムを6個ずつ買う買う時の総数は?」...などが含まれる。
$ Q(4,6,24)に含まれるすべての問題状況で、その総数を計算するための、4x6 = 24, 6x4 = 24 という計算式は(どちらであっても)正しく振る舞う。
ここで重要な点は2つある。
純粋な計算問題を除き、「問題状況から問題となる量の式への写像」は単射でない。必ず問題状況は捨象される。
$ Q(4,6,24)の元はすべて「4x6」か「6x4」に写像されるが、4個または6人また4店舗の何をどうしようとしていたか、といった情報は、数式に一切痕跡を残していない。
これらの問題すべてにおいて関心のある量である「総数」の値「24」は「4x6」か「6x4」のどちらからも正しく与えられている。
したがって、完全に正しく計算できている計算式でも、「4個を6人に配る」「6人に4個を配る」「6人で4個づつ食べる」「4店舗から6個ずつ買う」...つまり、$ Q(4,6,24)のどの問題であったか示唆する情報は一般に現れない。また、その計算方法が「4x6」と「6x4」と複数あるように、そもそもの正しい計算式も一意ではない。 これは数学的問題の記述においてごく当たり前に起きることである。
記述解答で「4x6」ないし「6x4」という式があったとき、それは「4個を6人に配る」「6人に4個を配る」「6人で4個づつ食べる」「4店舗から6個ずつ買う」のいずれか特定の一つを意味しない。 何らかの問題が解かれる過程で、 4と6がかけられ、24が得られたということしか、「4x6」ないし「6x4」という式からは判断できない。当然のことである。「4x6」のどこにそれ以外のことが書かれているのか?
要するに、数式は問題状況を示すのではなく、問題状況のうち、
関心のある一部の量ないし事柄について
それを表現するやり方のうち一つの方法
を表すにすぎない。問題状況は捨象されるし、問題の求解方法は一意ではない。
ここでwikipediaを見ると
「3 × 2は3本耳のウサギが2羽、2 × 8は2本足のタコが8匹いるという意味になります。」
と驚くべき「意味」が展開されている。これの元の問題は「耳が2つあるうさぎが3羽いたときの耳の総数」を問うている。
順序擁護派が全体として「掛け算の意味」というものにコンセンサスがあるのかどうかわからないが、少なくともこの記事の著者はこの「意味」として「問題状況」そのものを指しているようだ。
明らかにこれは「意味」を必要以上に大きく取りすぎている。その「意味」はこの問題で問われていること(総数)に対してあまりに解像度が高く、このため「「意味」を保った等式変形」すら不可能になっている。つまり、抽象化に失敗しているのだ。
よく考えてほしいのだが、この例での順序派の言うように、「3x2」の意味が、「なんらかの「1つあたり量」が3で、それが2セットある状況」を意味しているのだとして、これを計算した結果の「6」にはそんな情報は一切含まれていない。「6」という数値ないし解答からは「1つあたり量」も乗数も2本耳ウサギも3本耳ウサギもタコも見出すことはできないのだが、なぜ順序派はこのことを指摘しないのだろうか? つまり、なぜ彼らは「問題の答えを求めてしまうと、問題状況が捨象されてしまう」とは言わないのだろうか? (もちろん、ナンセンスだからである。問題の答えとは多かれ少なかれ状況を捨象するからである。そうであればそれを導く掛け算が状況を捨象しているのも当たり前である)
「3 x 2は 3本耳のウサギが2羽」というのは、この筆者の妄想に過ぎない。そこにあるのは「6(本)」に評価されるただの記号列にすぎないのに、この筆者は「3x2」から勝手に元の問題文に無い生物を創作してすらいる。それならば、よろしい、例えば(無次元の)数値144は144 = 8 x 2 x 3 x 3なわけだが、144とは、3本指のズォピンニャウが8体居てこれを3人でベヌィを2日にわたり3回行ったことを意味するのだと教えておこう。そうでしょう? ズォピンニャウは幼稚園児でも知っている非定型恐怖生物だし、あなたも子供の頃にベヌィをしたことがあるはずだ。それに8本指のズォピンニャウなんてみたことないでしょう。想像するだけでもおぞましい。それとも3日に渡ってベヌィをやるのか?そんなことをやったら333日後に気が違って死んでしまうよ。
こんな具合に採点をされてはたまったものではない。「3x2」は「3x2」か「2x3」か、あるいは「6」である。そこにウサギも匹もタコもエイリアンもない。幻覚を見ているのではないか?
仮に解こうとしていた問題状況が「3本耳のウサギが2羽」でも「2本耳のウサギが3羽」のどちらであっても、総数としての6本は正しく求まっており、「総数を求める」という当初の目的にたいして、数式が示す状況の曖昧さはなんの影響も与えていない。つまり、3x2、2x3はどちらでも、「総数を求める」という目的にたいして、状況を正しく捨象できているのである。3x2なり2x3なりといった式に、この宇宙のウサギの耳の数がいくつだったか、3が匹なのか本だったのか食うつもりだったのか配るつもりだったかも出現しないのは、元の問題文で求められたことが耳の総数だったからである。耳の総数を求めたいなら、元の問題状況が「3本耳のウサギが2羽」でも「2本耳のウサギが3羽」のどちらであっても必ず答えは同じになる。だからそうした情報は式に現れないし、当然式の「意味」にも含まれない。
したがって、「3x2」ないし「2x3」の、標準的な式の意味を超えた「掛け算の意味」というものはない。考える意味がないし、それは式として書かれてもいないことを勝手にでっち上げているのである。「3x2」も「2x3」も、その意味は「6」だ。「3本耳のウサギが2羽」でも「2本耳のウサギが3羽」でもない。「6」だ。
「2本耳のウサギが3羽」の計算を「3x2」で行った時、そこからわかるのは、回答者が、「3x2」という、6に評価される式を得たということだけである。3x2も2x3もその結果としての6も正しい回答である。そして、3x2と2x3のどちらについても、その式を書き得るような、そして正当な、回答者の掛け算の流儀と回答者の考察パターンの組み合わせを想定する事ができる。
したがって、3x2および2x3どちらであっても、その式から回答者の誤解を立証することは不可能である。
まとめると、
なんらかの想定される「掛け算の意味」というものがあり、
これを了解していることが正答扱いするための必要条件であり、
逆順序解答は生徒がそれを了解していない証拠とみなせる
について、それぞれ、
「かけ算の意味」が標準的なそれよりも大きすぎる意味で取られていて、しかもそれは問題解決に余分な情報である。
関心のある量(総数など)に影響しない問題状況は捨象されて式になるのであり、余分な部分は了解する必要がない。
数式から捨象された問題状況を復元することは原理的に不可能であること、式の標準的意味はどちらも同じであることから、どちらの順序で書かれた式でも誤解の立証になりえない。
という反論になる。前提で述べたように、回答者の思考過程の誤りを立証できず、正解を導けている以上、逆順序解答を誤答扱いすることはできない。
前提でも述べたが、誤答/誤解の立証責任が採点者側にあることは十分に強調しておきたい。
そもそも一般に記述式の採点は難しいのである。掛け算問題の記述は掛け算の式一行だけであるからなおさらである。
「「m人おり、一人当たりn個」問題で「m x n」と答える人は出てきた数をそのまま掛けているだろう」
というという議論が(某予備校講師によってすら!)しばし行われるが、
「m人おり、一人当たりn個」問題にたいして「出てきた数をそのまま掛ける」のは議論の余地なく完全に正しい解法であり、
この議論は問題の指摘にすらならなっていない。良くて杞憂、悪くて偏見である。
偏見で立証責任を果たせるなら裁判は要らない。
おそらくこのタイプの議論の狙いは、「採用された「1つあたり量」が想定と異なる」ことを指摘しようとしているのだが、掛け算の定義順序と「1つあたり量」の選択の両方で任意性があるため、無理筋である。
なぜ順序派は順序を固定しようとするのか?
前節では、
「数式は問題状況の一部の、しかも一般に複数ありえる答えの計算方法や概念立ての一つを表現しているに過ぎない」
ことを説明し、標準的な意味では、掛け算の式の意味はどちらでも同じであること、掛け算式からはそもそも問題状況を復元できないこと、それ故に掛け算の式一つでは回答者の誤解を立証できないことを述べた。
しかし、これは順序派の採点基準が不当であることを示しただけであり、なぜ順序派が、
標準的には同じ「意味」しか持たない掛け算の式のバリエーションから「二本足のタコ」だの「3本耳のウサギ」だの
非常識な妄想をしつこく繰り広げ、剰えその責を回答者に転嫁しようとするのかの動機の説明はまだである。
以下では彼らのこうした習性についての仮説を述べる。
繰り返しになるが、
「数式は問題状況の一部の、しかも一般に複数ありえる答えの計算方法や概念立ての一つを表現しているに過ぎない」
このテーゼを順序派が受け入れていれば、掛け算の順序ごときに過剰な証拠を見出すことはないだろう。
したがって、順序派この主題を受けれいていないはずである。つまり彼らは、
「数式には、問題状況の相当部分が表現されており、問題状況の計算方法および概念立ては一意である」という誤った前提
で採点をしようとする。
この前提はもちろん数学一般で成り立ちようがない。成り立ちようがないのだが、
この前提を無理やり擁立するために、順序派は
掛け算の定義の流儀(被乗数と乗数=再帰引数を左右どちらにするか)のうち、特定のものだけを採用する(計算方法の一意性)
または、何らかの妙な議論を持ち出して、逆順で定義する流儀との互換性を拒否する。
例えば「可換性を習ってないから使っちゃダメ」etc
問題状況ごとに「1つあたりの量」という概念を設定し、それらのうち特定のものだけを採用する(概念立ての一意性)
例えば「4個/人」を「1つあたりの量」として採用するがより迂遠な「6個/順」は採用しない。
採用した掛け算定義の被乗数には「1つあたりの量」を割り付けなくてはならないとする(問題状況の式による表現)
という仮定を人工的に導入しているのではないかと自分は考えている。つまり、この3つの仮定を彼ら自身が(なんとか屁理屈を捏ねて)信じ込むことによって、少なくとも掛け算をやっている間は、先のテーゼの否定が成り立つかのように見せているということだ。
この仮定の中心的概念が「1つあたり量」ないし「単位量」である。
例えばこの仮定を用いて、次のように運用する。
掛け算の定義として、被乗数乗数の順序を固定しておき(再帰引数を乗数とし、被乗数を左側とする)、それで授業を行う。
出題した問題文中の「1つあたりの量」がどの数値かを前もって固定しておく。
その数値が掛け算の左側に出現しなかった場合に、これを誤答とする。
このとき、積の定義として教授された順序と逆にとるか、「1つあたりの量」を想定解と別にとるかのどちらかを実行した場合、正確に問題状況を理解して問題を解いたとしても、誤答扱いされることになる。
具体的に、問題が「一人あたり4個で6人」の形式であれば、「6x4=24」を誤答とする理由は
この問題の「1つあたり量」の採点者による想定は4個/人である。
採点者の想定する掛け算定義での被乗数位置は左である。
採点者は「1つあたり量」は被乗数として扱う。
採点者の想定が正しい場合、出現している具体的な数から「1つあたり量」は6個/人$ \neq4個/人となり矛盾する。
という次第になる。
これは、なぜ順序派が想定順序とは逆の掛け算を見ただけで、様々なクリーチャーを創作し始めるかの説明にもなっている。彼らは以上の仮定を内面化しているため、逆の掛け算を見た時、それを「単に掛ける順番を変えただけ or 掛け算の流儀が違うだけ or 考えている「1つあたり量」が違うだけの、同じもの」などとは考えようとしない。
彼らにとっては、掛け算の左側(彼らが想定している被乗数スロット)に、彼らの想定する「1つあたり量」の数値が来なかった時点で、即座に彼らが想定している「1つあたり量」の数値が変更されたシグナルとして受け止められることになる。
もちろん、以上の順序派の想定および仮定はすべて間違っている。
すでに度々述べているが、まず第一に
掛け算の定義の流儀(被乗数と乗数=再帰引数を左右どちらにするか)は本来どちらを採っても良く、可換性によってそれらは一致する。一方を強制できる数学的理由は存在しない。
例えば逆順序で回答した児童に「先生の授業の流儀とは逆の掛け算の流儀を使ったから、「一つあたりの量」が入る被乗数は逆の位置になった」と言い訳をされた場合、これを否定することはよほどの予防線を張らない限り無理筋である。そして既に前提で書いたように、授業での流儀を強制することはできない。実際にこういう主張をする利発な児童が居たら面白いが...
備考:
それから、
問題状況にて被乗数に対応付けられるような「1つあたりの量」という概念設定は、welldefinedではない。
例えば「一人当たり4個を6人へ配る」という状況で、おそらく想定される「1つあたりの量」は4(個/人)だが、
ここで、関心のある量である「総数」を保ったまま、問題状況を「6人に配る操作を4順」に変形し、
「1つあたりの量」を6(個/順)にとっても、せいぜい「やや直観的でない」ないし「迂遠」というだけで特に問題はない。
ここで教員が「「4個/人」のほうが「1つあたりの量」としてふさわしいよね?」と主張したところで
「それってあなたの感想ですよね(ひろゆき)」である。
こうした迂遠な問題の見方はそれほど無駄ではない。
問題状況の中で関心のある要素を変えず状況を変えるのは実際に役に立つ。
例えば組み合わせ場合の数の計算では、こうした「同等の状況を再現するが、手続きは異なる捉え方」は
場合の数の計算をすすめるヒントになり得る。
掛け算問題の極めて多様な状況に「1つあたりの量」を自然かつ一意に見いだせるかどうか全く明らかではない。
例えば傾いた図形面積の求積、複雑なグリッド/グルーピングで配置されたオブジェクトを数える場合、整数ではなく無理数の場合、複数の次元が絡まる計算で比率が複数あったり、比率同士をかけたりする場合、問題状況の如何によって、「1つあたりの量」という概念が自然に考えられるかどうか、あるいは考えられても一意的かどうかの保障はまったくないのである。したがって、ここに教員の恣意的な判断が介在することになり、"真の「1つあたり量」"を固定すること自体が理不尽の温床となる。
さらに、
可換性によって乗数被乗数の区別する必要がないので、「1つあたり量」を掛け算のどちらのスロットに代入してもよい。
「1つあたり量」と被乗数を一致させるのはなんとなく直観に適っている気がするが。気がするだけである。逆にしても一切問題が起きないことが可換性によって分かりきっているのに、わざわざこの逆立式を禁止する理由はない。 「掛け算をどのように定義したか」と「問題状況および解法をどのように捉えたか」は独立である。 もしこれが一致していなくてはいけないとしたら、あなたは電卓を使うことすらできなくなる。「1つあたり量」をなんとかあなたのセンスで選ぶことができたとして、電卓側の掛け算が「n x m = n x (m-1) + n」で定義されているなどとどうやって確証するつもりなのか? そんな確証は要らないのだ。知っておかなくてはいけないことは、掛け算がどう振る舞うかであって、掛け算がどう定義されたかではない。 そして既に述べたように同じ振る舞いをする掛け算の定義が複数存在するのだ。
順序派の不当な仮定はどこからきたのか?
これらの仮定は、掛け算を何も知らない小学生に、「例えばこうやって使うのだ」という例示として用いられる限りは、無害だし、むしろ有益なものだ。
「掛け算って何」
たとえば、足し算を何度もやった結果を掛け算で書けるよ。n x m = n x (m-1) + n としてみよう。
「どんな時に使えるの」
たとえば、一人あたりn個配るものを、m人に配ったら、その総数はn x mになるよ。数えたいものの「1つあたり量」と「かける量」をみつけて、「1つあたり量」x「かける量」をやってみよう。
これは正しい説明であるし、掛け算という抽象的操作を、具体的で有益な例として述べることができている。
このような説明は補助輪のようなもので、自転車の扱い方をわからないわからない者に、
補助輪をつけて乗せることには一定の意義がある。
だからこれを例示の手段として導入時の説明に用いることは全く問題ない。順序反対派もこれは全く推奨するはずだ。
しかし、これはあくまで例示にすぎない。「たとえば」という前置きがここから抜け落ちると、それは完全に誤りとなる。
AがBの例である、またはAがBで抽象化/導入出来るからといって、Bの意味が常にAによってのみ把握されるわけではない。
そしてまさにこの点がこの仮定を用いた採点方法の有害な点である。
それは掛け算そのもの抽象化、広大な適用範囲を制限してしまう。
掛け算の順序が意味をなさないような抽象的な空間での計算、あるいは非常に多数の因子がかかっている量の計算、
その他諸々どんな量でも掛け算割り算を考えて良いし、それらの順序など誰も気にしない。
気にしないが故にそうした量を軽々と計算できる。そうした本当の意味の掛け算の自由度と可能性を閉ざしてしまう。
さらに、ありえない仮定それ自体が曖昧で恣意的であることも問題である。上記の仮定において、掛け算の定義をどちらで行うか、また「1つあたり量」を問題状況からどう見出すかは、完全に恣意的な要素である。逆でもあり得たし、逆で議論しても完全に正しい。このうちの一方を教員が選択し、それで授業を行ったからと言って、もう一方の議論の正当性は一切失われない。
これを誤答扱いするのは、採点基準の恣意的な濫用にほかならず、それによって教え込まれるのは、学問的真理ではなく、採点者の権威への従順である。数学は奴隷を育てる道具ではない。
逆順解答を誤答にできるのか?
どうしても出題者/採点者の想定する「1つあたり量」と、それを代入する被乗数位置を児童に守って欲しい場合、
前提で述べたように、このことを示す明確な補足を行えばよい。例えば
「一人あたり4個のりんごを6人に配ります。総数を求めなさい。
ただし、4(個/人)を「1つあたり量」とし、この量を左側においた掛け算を用いなさい。」
と言った具合だ。逆に言えば、
このような注解が明示されていない問題を逆順解答されてもそれを誤答扱いすることは許されない。
それは注釈を怠った出題側の責任である。
「4(個/人)を「1つあたり量」とし、この量を左側においた掛け算を用いなさい。」
という注釈は、現実的にはこれ以上削ることはできない。おそらく順序派がこだわるであろう3点
掛け算定義における被乗数位置
問題状況における「1つあたり量」
「1つあたり量」 = 被乗数にとる。
を守らせるには、これ以上簡単にはできない。
そこで考えてほしいのだが、こんな注釈をすべての文章題につけることになんの意味があるのだろうか?
順序派による異常採点さえなければ、もともと算数の出来る児童にとってこんな文章は鬱陶しい補助輪に過ぎない。
あるいは、掛け算の活用に難がある児童にとっては、「ああこの量に注目すればいいのか」とはなるかもしれない。
「1つあたり量」の例示と、掛け算左右の例示は、そうした苦手な児童への補助輪になり得るかもしれない。
つまり、ヒントなのである。そうならば、
「一人あたり4個のりんごを6人に配ります。総数を求めなさい。
ヒント:4(個/人)を「1つあたり量」とし、これを左側においた掛け算を用いてみよ。」
のような出題にし、当然一般論としてヒントに従うことは義務的ではないので、逆順解答も正答とするべきだ。
あなたが「補助輪を付けた状態で自転車に乗った経験がなくては自転車を乗りこなしたとは言えない」などというおかしな思考の持ち主でない限りは。
つまり、上記のようにすれば「逆順解答を正しく誤答扱いすること」は原理的には、できる。が、無意味である。
多忙であるはずの学校教員が、
このような理不尽や無意味さの再生産にあくせくと取り組んでいるというのは嘆かわしい話という他ない。
単位について
掛け算式に単位をつけることは、数式にゆるい型をつけるようなものである。
型システムがそうであるように、これは(幾分の煩雑さを支払うことで)数式の柔軟性をほぼ損ねることなく、
数式で表現される情報を増やすことができる。したがって、
4x6=24
のオルタナティブ
6x4=24
を、単位を付けて
6人x4個/人= 24個
と書くことによって、「私はこの問題を「一人あたり6個を4人」と誤読してはいませんよ」と主張することは出来る。
その時点で「こいつは問題状況を理解した上で可換性を知ってるな」と思われれば、異常採点をすり抜けられる可能性はある。
ただし上記のような仮定による採点を教員が厳格に運用していた場合、
「4個/人」という想定された「1つあたりの量」が左に無い時点で誤答扱いされる可能性がゼロではない。
というより、そもそも異常採点の責任は採点する教員側にあるのだし、
このような回避策を、児童がわざわざ次元や単位を先回り学習して対策しないといけないという時点で何かがおかしい。
あくまで意欲ある児童が、もし自力で異常採点をかいくぐるなら、という策にすぎない。
本来的には異常採点をする順序派を義務教育から駆逐する責任は大人側にある。
結論
順序派は「数式は問題状況の一部の、しかも一般に複数ありえる答えの計算方法の一つを表現しているに過ぎず、たかだか掛け算の数式の順序一つで児童の理解の不備を立証することは一般論として不可能である」ことを受け入れるべきである。