古典の学習について
個人的には古典は大事と言ってる人がどんなふうに古典学習に取り組んできたのかということを簡単でいいので、まとめてくれているといいのにと思った。他の学習者の動機づけを知ることって学習の基本だと思うし。古典学習から離れてしまった立場ですが、簡単に学習歴を書いた
2013年に自分が書いた記事から引用。
★文法比較・文法と意味との関係・翻訳とは何か
これから紹介する本は、できるだけ権威の勧める本の中から選びます。そのほうが、大きな選択ミスも少ないと思うからです。また、高校2年生までの基礎を固めていることが前提なので、もしそこまで辿りついていない人は(僕は卒業時にようやくそのレベルに達した…)書店やアマゾンでできるだけ定評のある参考書を買ってしっかりやり込んでください。少し手間をかければ、受験用参考書の中にもかなり質の高い本が見つかるものです。また受験特化の選択にしていませんのであしからず。
受験範囲内で区切ってみると、英文法・漢文法・国文法(口語・文語)の四種類。
●『漢文法 基礎 本当にわかる漢文入門』二畳庵主人 加地伸行 講談社学術文庫
基礎とは何かの考察が参考になり、また漢文法と英文法の比較、漢文法から語感を読みとるための説明は、他の文法を考える材料になる。一度基礎が付けば 『論語』(吉川 幸次郎がお勧め)など有名古典を読んだり、漢詩を楽しんだり(僕は一年間ラジオ講座の日本の漢詩を楽しみました。)するなかで、連文や互文の知識も蓄積し、熟語用法に強くなる。すると、日本語向上や明治の小説の理解促進につながる。(漱石らは熟語の語彙に巧みですから我々もその境地に到りたいです。)目茶苦茶な思考をするよりまず「てにをは」からという著者の主張は心にぐさりと刺さる。
以下三冊 加地氏のお勧め本
●時枝誠記『古典解釈のための日本文法』(絶版・図書館などで探してみてください、題名が「日本文法」で登録されていたり探しにくいこともあるので司書さんにお願いしてもいいと思います。…そういった探すテクニックを自分で習得してください。もう書きません。 →著作権切れでネットで読める)(至文堂) ●松尾聡『古文解釈のための国文法入門』(研究社出版)(絶版)→再販されたそうです(2019年)。
上記の二冊は例文を源氏物語からとっています。(松尾氏の本は万葉集も)源氏を楽しんでいるうちに、古文のエッセンスを吸収できる良書です。時枝氏の本はいわゆる時枝文法で古語を、文法を構成するの「公理」の秘密に魅了される人もいるかもしれません。僕はまだ文法1年生のひよっこですが、文法の世界への入口の一冊として足田巻一の『やちまた』を紹介しておきます。松尾氏の本は「文法と意味の追求の過程」を楽しむことができます。原文と現代語訳を意味的に対応させるための努力が学べ、英文和訳の姿勢につながるところがあります。源氏物語に関して、僕は大塚ひかり全訳が、記号的解釈・源氏におけるエロス…追求の点で解説も詳しい点で初心者にお勧めです。訳は原文から感じたクオリアを反映しようとしていて、初心者は読みづらい。でも原文を読み続けると体になじんできて丁度いい塩梅になります。
●阪倉篤義『日本文法の話』(教育出版)(絶版)
国文法の口語と文語との対応関係に関して考察した書。暗記してきた口語文法と文語文法が有機的に結びつく。ちなみに●所一哉『日本語思考のレトリック』では阪倉文法を用いて入試問題を解く中で、阪倉文法が抱える問題点を指摘している。ある公理からなる文法一つで全ての説明をつけれる訳ではないので、様々な文法がお互いの体系に批難をくわえるなかでより良きものを目指す、こういった文法業界の誠実な営みは現在の政治にはあるか?
●『マンガ日本の古典』シリーズ(中公文庫)
古典に対して大きな障害を感じる人は、漫画から入るのも手だと思います。原文から捨象されてしまう部分は多いけれど、一方で漫画家がその作品をどう見たのかというビジュアル情報を直接味わうことができるという利点がある。1つのテキストに向かい合ったとき、各々がそのテキストを通じてみている世界がどれだけ違うか、興味深い限りです。
●板野博行『古文読解ゴロ565入試出典ベスト70』
国語便覧の方が網羅度が高いが、受験生は上記の565が、出典頻出順になっていて使いやすいかもしれない。自分の読みたい古文を読んで多読の中で文法をなじませていく作業も大切だ。その際に
●『新編日本古典文学全集』(小学館)
を利用するのが全訳付で初心者には便利だ。(僕は源氏物語を岩波文庫のもので勉強したが、全訳がないのでかなり時間がかかった)
ある程度古文や擬古文読めるようになってくれば
●『岩波 古典文学大系』『明治文学全集 筑摩書房』
などの全集を通して、さらにさまざまな作品に触れることができます。
現役のときは、かなりレベルの低いところからだんだんレベルを上げていくという方法をとった(省略)。
自分の場合、浪人生として二次試験対策で漢文・古文を勉強する際に、 関谷 浩『古文解釈の方法 (駿台受験シリーズ)』『古文解釈の完成 中・上級問題集 (駿台レクチャー叢書)』などをやって『鉄緑会東大古典問題集』などの解説の詳しい問題集をやったりした。図書館にある古典大系ものはほとんど目を通したし、翻訳や原文で読んだことのないものは他図書館から取り寄せて読みまくった。なので物語要素事典を読んでいてもわりと読んだことのある作品があるなというふうに感じたりする。アニメや漫画を読んでいても、物語の要素としての系譜のようなものが知識として意識できていると「新しい興味をもったり、小説を書こうとしたときに」便利かもしれないが、とりたてて実益があるようにも思えない。人格陶冶も大して期待できないような気もする。少なくとも時代によって固定的なものの見方や考え方があるということを実証的に意識できるということはあるので、自分のものの見方の癖が対比的に明らかになることはあるかもしれない。 古典学習に関して、多読しても力はつかない(し、どうせ読んだことのある文章は出ないから入試対策にならない)という話があって、自分もそうだと思うけれど、自分ができるだけたくさんの物語を読もうと思った理由は、過去において人間がどんな合理性に基づいて行動していたのかを知りたいと思ったことが挙げられる。自分は被害妄想に関して興味があって、昔の人はそういった問題に対してどういうふうに取り組んでいたのかということが知りたくて、できるだけたくさんの古文・漢文の原文なり翻訳を読みたいと思っていた。 被害妄想に限らず、対人的な問題に関してどんな解決をしていたのか、どう納得していたのかということに興味があった。
漢文の教材に関して、Twitterでさまざまな情報が出ていて、あの本の記述は間違ってるとか、そういう知見を取り込んだりはしてみたけれど。実際に自分がどの見解が正しいと実感できるレベルまで学習できたかというと、自分の場合は無理だったし、なんとなくこういう手順で学んでいけば5年ぐらい学べば、分かるようになるのかなという道筋はあるものの、5年あったらプログラミングやったほうが自分の満足度は高いかなあと最近は思ってる。
自分のキャリアとして古典研究に関心が向かわなかったのは、一つは入試に落ちたこと(もし受かっていたら古典クラスタだった可能性がある)、もう一つは、もし国語の教員になったとして、『鉄緑会東大古典問題集』といった参考書を書けるようになるだろうか、もしくは研究で成果を出していけるだろうかということを考えたときに、仮にこの先に手に入れることのできる専門書を読んでいっても、自分には難しいかもしれないと思ってしまったこと(投資に対してリターンが期待できない)も理由として挙げられる。
もし次に古典を学び直すことがあるとしたら、言語学などを学び直したいと思ったときに一緒に学び直す可能性があるのかなと思ってる。
高山 善行(編集) 青木 博史(編集)『ガイドブック日本語文法史』あたりを参考に興味のあるところから深めていくのがいいかなと思ったりもするのだけれど、学習が面白くなっていくイメージがあまりなくて、他の人はどんなモチベーションで古典研究に臨んでいるんだろうとか思ってる。
一つの言語を極めようとするよりも多言語学習に向かったほうが楽しいと思ってしまうので、そっちに流れてしまいがち。
センター古典の百合作品が話題になったとき、「古典学習を高校で必修にすべきか問題」と関連付けてさまざまな意見があった。物語としての古典を楽しむことならば、人生をひもとく 日本の古典などテーマから色々な作品にふれることもありかもしれない。必修にすることの意義は、学習によって古典の原文が読めるという可能性を多くの人に示すという意義がある。そのための対価を払うことができれば誰にでも読めるようになるという幻想を与えることができれば、挑戦する人を一定数確保でき、その一部は研究職を目指すだろうし、国語教育に従事してくれる教員を育成することにもつながる。 古典が必修でなくなると、古典を学ばないと国語教員になれないということが起きうる?
国語教員の専門性とはなにかということに対して、現段階では現代文、小説、小論文、漢文、古文を連関して教えることができるレベルで言葉に対する理解ができている人材を教員として採用しているが、これが現代文、小説、小論文だけの教員を採用することがありうるかというと、難しいのではないかというふうには思う。
国語教員養成課程への入学の要項には古典を必ず入れるべきだと思う。
基本的には必修にしておけば古典需要は一定数確保できるけれど、それよりも優先すべき学習があるのではないかと言われると、確かにあるような気もする。
ライティングを鍛える時間を増やしていくことは必要なのではないかというふうに自分は考えている。
古典学習はわりと楽しいと思うけれど、必修でなかったらなかなか学ぶ気が起きないし、2次試験などで扱われていなければ、硬派な参考書も絶版になってしまうと思う。
もし必修から外れてしまったら、こうしていけば力がつくとか、どんな力が身につくのかとか、そういった学びの案内本や自分はこうやって学んできたという体験文を増やしていくことで対応していくしかないだろう。
イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室を読んでいて、ライティングを鍛えるという方法に関して、示唆的なことがたくさん書かれていて、自分もそういう形の教育(どうやったらそういう教育を実現できる教員が育成できるのかということに)に興味があるので、小説を書くということをやってみようと思って、アニメ作品事典やノベライズ化作品3000冊などを参考に映像やアニメーションと小説との対応、変換の仕方について少し考えているのだが、こういう頭の使い方はこれまであまりしてきていないので、難しいなと感じている。 古典作品を現代版にノベライズしてみるというような作品もたくさんあるのでこれまでにそういう作品に触れたことがあるが、あんまりおもしろくないと思ったり、「面白さ」や「エンタメ」について学ぶのに古典分野だけを読んでいてもなかなか難しいのではないかなということは感じる。
アトウェルの本では古典学習はどう位置づけられているのか気になる。詩作って基本的に古典知識を活かすものが多いように思うので。日本の古典学習はどちらかといえば古典解釈や文法学習に比重があるけれど。
斎藤 兆史(著) 上岡 伸雄(著)『英語達人読本』で映画「いまを生きる」を取り上げている部分があって、手元に本がないのであってるかわからないのですが、古典学習と詩作に関して、この作品を連想した。 e-learning教材制作会社でバイトしていると、特定の手順をe-learning化するために手順書を書いたり、理解を確かめるための問題を作問したりする機会が多いのだが(僕がそういう仕事を任されるわけではないが)、そういう仕事をするためには論理学などを学ぶことも有効かもしれないが、むしろ古典や英語を学んだときに解釈に関しての知見が一定数溜まっていて、それを活用しているという感覚があるので、そういった手順書を書く作業がある仕事に就く人は古典を学んでおく意味があるのは確かだと思う。
沢渡 あまね(著)『職場の問題地図』など仕事が属人化しないようにマニュアル作成することの意義について書かれていた(ように)思ったが、マニュアル作成のための文章力をどうやって鍛えることができるかということを考えると、『考える・まとめる・表現する』などといったような図解力も重要になってくるし、問題解決的な発想も身につける必要があり、『問題解決大全』なども参考になるのではないかと考えている。 読者は古典の知識がないのに、それを書く人に古典の知識が必要なのかという疑問に対しては、どちらかといえば知識が必要というよりも解釈の多様性の問題に対しての知見を深めるという意味での重要性の方が高いのではないかというふうに思ってる。
最近だと古田 尚行(著)『国語の授業の作り方: はじめての授業マニュアル』が参考文献もしっかりしていて、国語教員を目指す人は読書リストとして活用するといいかも。
Kikuno@北海道教育大学釧路国語 @mk_kushiro
『国語教育史資料 第4巻 評価史』を読んでいて。「渡邊 実際、高等学校の立場からいえば、先生方がおっしゃった古典そのものを云々ということはなるべくやめてもらいたい。」という座談の様子を見付けてしまうと、『国語教育史資料』全巻全頁をめくらねばならないと反省する。件の議論とそっくり
該当部分をお示しします。時枝誠記と渡邊修がやりとりをしています https://gyazo.com/d86973c22748ea1eb8b13dc3ab4bb769
自分の場合も古典の必修だけでは、古典作品が読めるという感覚を得ることは難しかった。むしろ苦手意識が付いた。でも、専門書などを読んでいけば自分にも読めるようになるのではないかと思い、漢文、古文、漢詩や和歌などの関連書籍を漁りながら、どうやったら力がつくのか試行錯誤していった。
高校3年間に加えて2年間ぐらい古典学習に向かったが、苦手意識は抜けきらないところがある。
もしやり直せるならScrapboxで学習の記録をすると、どんなところで面白いと感じるのかを記録しやすかったかもしれないと思う。 古典を読んでいく中で、さまざまな文法的知見に対する疑問や解釈での難しさを感じたり、物語への面白さを感じたのだが、それを記録していなかったために、時間がたった今、もう一度古典学習に向かい直すモチベーションを失ってしまっているのはとても残念だ。
古典学習をしてときの自分は、時間に余裕があったから、つまらない作業でも続けることができた。でも、今の自分は仕事に役立つ知識を優先して学ばないといけないし、次に繋がることをやるべきという観念に囚われているので、とてもじゃないけど意欲的に取り組むのは難しいように思う。そういう意味で、過去にそういった時間を確保できたことは良かったと思う。自分にとって古典学習は、目にみえて明らかなリターンが期待できるわけではないが、ある程度やり込むと得られるものがある(もしくはやりこんでいるときが楽しい)タイプの学習だったかなと。
ちなみにどちらかといえば漢文を勉強している時間を中国語にあてた方が自分にとっては有益だったと思う。
漢文の専門書を買いまくったときに使った予算から自分が得ることできたことってなんだろうと振り返ってみると、中国語教材を買う予算に回すべきだった。
古典に比べて現代で使われている語学の学習はわりと音源なども選び放題だけど、漢文などの学習では例えばNHKラジオの「漢詩の楽しみ」や 荘 魯迅(著)『声に出してよむ漢詩の名作50: 中国語と日本語で愉しむ (平凡社新書)』ぐらいしか音源教材で学習しなかったなとふと思った。耳から学習できることのメリットは移動時間も学習にあてることができる。とりわけ中国語なら音源も色々と探せるし、自分が好きな題材を聴くことができる。英語学習でもちょっと昔の文章を学ぶ際にKindleの読み上げや朗読音源を探すことはたやすい時代なので、耳から学ぶことが少ないのはちょっと残念のような。
まとめ
古典学習のトレードオフとなる分野(まつど主観版)
(例えば小学校や中学校で漢字の反復練習をする時間がわりと無駄だったと思う人は、それを学んでいる時間に漢文を学んでいたほうが利益があったのではないかと判断するならば、「漢字の反復練習」と「漢文学習」をトレードオフの関係とみなすと定義する)
「古典学習で得られる解釈する力」と互換性のありそうな分野
小説読解
小論文
個人的には、「解釈する力」と「表現する力」(図解や明晰に表現する、グラフィックレコーディング、プレゼンテーション力、メディア媒体を工夫する、など)は、意識的にトレーニングしないと伸びないと思うけれど、前者はこれまでの二次試験までのトレーニングでわりと鍛えることができたように思ってる。後者はあんまり学校では意識的にトレーニングする機会はないのではないか。前者は教室内や問題内で正しさが完結するが、後者はどうやって伝えるかという意味で厳密な正しさが決まらないことが多い。
言語学習の意義を
実証性を重んじる態度を涵養する(科学的なものの見方を身につけること)
自分で議論元を参照することの重要性
自分で確かめてみるまでその真偽は保留するべき
文法や解釈の議論に通じることで、議論を正確に行う力を身につけること
異なる地域、異なる時代の文化を知ることで、自身のものの見方を相対化すること
などにあると考えるならば実際のところ、古典学習全般の代替として言語学習でもいいのかなと思ったりも。
漢文
中国語
古文