京アニの事件をオタク一般に帰責するのは妥当か
オタクのみんなは京アニ事件がオタクの延長にあるって思いたくなさすぎて、少しでもそう感じさせる言説を見つけると袋叩きにして回ってるかんじだ。身内が身内を殺した事件だって認めるところからスタートしないと、鎮魂も何も始まらないのでは?
京アニの事件をオタク一般に帰責するような意見もあるけど、ぼくにはよくわからないな… オタクにとってアニメって、日々を耐え忍ぶための鎮痛剤のようなもので、むしろ狂気や自暴自棄に陥らないための精神的なセーフティネットに近いと思うのだが
それを自ら壊そうとする行為はヤマカンの言うように狂気なのだと思うけど、ほかならぬセーフティネットの担い手にそれが向かってしまうところが、この社会のなかでアニメの置かれている位置のむずかしさを物語っている
むしろアニメくらいしか社会のセーフティネットとして機能していないからこそ、そこで支えきれなかった狂気が当のセーフティネット自体を壊すほうに向かってしまうのではないかと思った
狂気に陥りそうなひとにとっての、社会との最後の接点になってしまうからこそ、その狂気が向かう先にもなる。自分にはいまのところ、そういうふうにしか整理できない
最終決戦で対話しながら戦う作品と、対話しないで戦う作品という対比構造に、さらに小森 健太朗『神、さもなくば残念』で言及されているような、対話できない相手と戦う(宇宙人とか)作品という3分類について今朝は考えていた。『Fate/EXTRA Last Encore』の最終話、対話ばっかりだったなとか。 アニメ観ていて、バトルの際に対話がある作品で、敵が呪術的思考で理不尽なことを根拠に闘いを挑んでくることも多い(例えば禁書の前方のヴェントとかFate/Apocryphaならアタランテとか)が、一方で敵がその世界観において真っ当なことを言っていることもある(Apocryphaなら最終決戦とか。
現実社会において、武力は対話の成立を許さないが(それこそ、)、