「被害妄想」に関連する文献を探しています。
被害妄想において、当事者は、自分の観念を「妄想」だと自認することは難しく、自身の経験を信じるならば、対立状況をも引き受ける必要があり、その解決は、警察や司法に委ねられます。加害者がそもそも存在せず、当事者がその観念において「加害と被害」という問題を生み出しているので、その観念をもっている限り、あらゆる対人関係において摩擦を生み出してしまいます。しかし、長年積み重ねた経験と体験が当人に「自分の抵抗だけが一連の悪に対する抵抗」だという正義感を抱かせているので、これまでの投資をサンクコストとして切り捨てることは当人にとってもデメリットが大きい(そもそも自分の推論や告発においてどこが間違っているということを検証する力に乏しいので、自分の正しさを黒と白とでしか認識できていないことが問題をこじらせることに繋げている)。 こういう問題の当事者にとって、自身の問題が「精神医学」という権威で「病気」として判定されることに対して不快感を覚えることと思いますし、実際問題として、統合失調症のような対人関係が客観的に社会不適合として認識しやすい段階まで悪化するならば、周囲の人間も強制的に医学という権威に頼るという解決を望むかもしれませんが、妄想性パーソナリティ障害に該当しそうなグレーゾーンの当事者において、周囲の人間がそういった権力を行使してまで医学に頼ることにメリットが少ないように思われます。
そのため、こういった問題は、医学に頼りにくい側面があります。知的分業において、専門家を「信じて」その解決を専門家に頼ることが最善だと「信じて」いる人でも、医学に頼るということには、「投薬やカウンセリングが当事者の観念の変容に対してどれだけよい効果が得られるのか」という見込み対して、そのために医療費を払うことに対して当事者及び周りの人がメリットを感じるのかという金銭的な天秤にかけられると思いますし、実際に、過去に精神科に受診したことがある当事者ならば、「投薬に対して観念に制約が生まれる状況」よりも「精神が鋭敏な現状」の方が望ましいと判断することがあると思います。
当事者が、実際にDSMを通じて特定の病気に認定されることを通じて「当事者」として社会適応という問題解決に立ち向かって生きていくことを分析する「当事者研究」に該当する文献は読んだことがありますが、被害妄想においてはその問題設定を引き受けることができないので、「当事者」にはなれません。この潜在的な「構造」に関して学術的に議論されている文献を探しています。
追記
「「医学における特定の病気」に自身が該当するか、そうでないか。」という選択において、仮に、該当するならば、「それを信じようが信じまいが」特定の病気における枠組みで問題解決していくということを現状の問題に対する「解決策」として採用していくことを検討する必要がありますし、仮に、該当しないと判断するならば、「被害妄想」が仮に「現実」だということを採用していく場合、警察が自分を苦しめる犯罪者を逮捕して司法で解決することで、自分の被害が減ることを期待して「待つ」か、自分の経験を記録して通報する(これも現実的でない現象に対して「本当」だと思って行っているなら、多くの人に迷惑をかけているということを「自覚」することは「特定の枠組み」においては採用できないかもしれませんが)など自分の信じている枠組みにおいて問題解決の行動を行っているのですから、「当事者」という風にみなすことは可能なのかもしれませんが、自身の認識に問題の原因があるという仮説を検討することを拒否すること
この「問題」を一般化するならば、特定の観念を抱くことを当人が望ましいと感じているが、しかしそういった観念を抱いている状況が問題を産んでいるという構造に対して、特定の観念を棄却することで解決を図るべきなのか、もしくはなんらかの折り合いをつけていくべきなのかという問題であり、「被害妄想」に限ったことではなく、改革や改善した方が大局では望ましいと思い、自分がそれに適任だと思っても、そのコストを負担することで自分が損を被ることがある。そのコストを負担できるのが自分だけの場合、その問題解決に臨むべきなのかという問題も同系統の問題だといえる。