寛容な教育機関
#essay
高専の学生の有りようはざまざまだ。ふと周りを見渡せば、そんな人間たちがあたりまえに(棲み分けはありつつも)共存しているから不思議である。高専は個人の嗜好あるいは性質に対してきわめて寛容な場所であるように思う。高専や大学といった高等教育機関は一般的にこのような傾向があるようで、その時代の一般社会では迫害を受けたり冷ややかに扱われるたりするような属性を持っていてもあまり気に留められないという意味で、ある種聖域のような場所である。
あのチューリングも例に漏れず、寛容なキングスカレッジで大学生活を送ったらしい。
一九三一年、チューリングはケンブリッジ大学のキングスカレッジに合格する。ケンブリッジ大学は、いわば大きなパブリックスクールのようなものだ。(中略)当時のイギリスでは、同性愛は法律で罰せられる罪だったが、キングスカレジはホモセクシャルの租界であるかのような雰囲気があった。しかし、チューリングは、シャイで不器用でなよなとした雰囲気をもつクラブやつきあいの場には入らず、孤独なセイリングやランニングを好んだ。それでも彼は幾人かの「友人」をもった。彼の自分本位な性格や行動は、世間の厳しさからカレッジの壁で守られていたと言える。
『甦るチューリング―コンピュータ科学に残された夢』 p.7
こういった空気は、時代を問わず教育機関に共通して見られるものなんだろうか。そうなるのにはどういう理由があるんだろう。