『これは水です。』
概要
アメリカの作家 David Foster Wallace が2005年にKenyon大学でした卒業スピーチ
彼は2008年に自宅で首を吊って自殺
参照先
https://j.ktamura.com/archives/this-is-water
https://twitter.com/tamuramble 氏による翻訳
話題・内容の展開(訳記事の段落ごと)
サカナと水の「寓話」
年上の魚が、若い魚に「今日の水はどうかね」と聞く。若い魚は、「水って何?」と言う
挨拶から入り、寓話を話すlemonadern.icon
教訓いっぱいの寓話と卒業スピーチ・陳腐な表現・伝えたいこと
先に述べたのは「卒業スピーチで一般的に不可欠とされる教訓いっぱいの寓話っぽい話」
自分は、年上の魚として「水とは何か」を説法しにきたわけではない
「人生において、もっとも自明で大切な現実は、得てしてもっとも見えづらく考えにくいものだ」ということを伝えたい
陳腐な表現だが、「生と死に関わるくらい重要になりえる」
寓話から伝えたい概要を述べて、陳腐でありきたりな表現だが大事なんだ、だから伝えたいと主張するlemonadern.icon
リベラルアーツ教育の価値・考える選択の自由
ありきたりな「リベラルアーツ教育の価値」とは、「知識をためこむことではなく、『自分の頭で考えられるようになる』ことである」というもの
押し付けがましくて、それまで自分の頭で考えられなかったようで侮蔑的に聞こえるかもしれない
しかしこの話は侮蔑的ではない
大学で得るべき新の教育とは、「自分の頭で考えられるようになること」ではなく「考えるべき対象を選べるようになること」(=> 「考える選択の自由」)
当たり前で無駄だと思うなら、魚の話を思い出して、自明なことの価値に目を向けてみてほしい
再び別の寓話(アラスカの寓話)
信心深い男と無神論者が神の存在について話す
アラスカで吹雪に巻き込まれ遭難した無神論者が、一か八かで神に祈った、エスキモーが現れ道を教えてくれて助かった
信心深い男「じゃあ神を信じるしかない、神が助けてくれた」
無神論者「助けてくれたのは神じゃない、たまたま通りがかったエスキモーだ」
アラスカの寓話に対する「リベラルアーツ的な分析」とその問題点
この話に対するリベラルアーツ的な分析
「一つの体験が、二人の人間にとって全く異なる意味を持ち、それは二人が、同じ体験にたいして、全く違った信念や観点から、意味を抽出しているから」
我々は信念の多様性を是とするべきなので、この分析には、どちらの男が正しく、どちらの男が間違っているといった話は出てきません。
この分析の問題点(2つ)
「彼らの異なる信念」の由来が欠如していること
彼らの信念は、予め定まっているようにみえる
個人的で意図的な選択ができないかのよう
決まった立場から議論が出発しており、立場がどのように形成されたかを問題にしていないという意味かなlemonadern.icon
傲慢さ
無神論者は、「エスキモーが通りかかったこと」と「神様に祈ったこと」が無関係であると100%信じています
信仰深い人間も、無神論者も、抱えている問題は同じで、両者ともに、盲目的な確信と狭い了見に起因する、獄中にいることすら気がつかない囚人です。
先の話で言えば、無神論者は助かった理由と神に祈ったことが無関係であると盲目的に確信しており、傲慢である
これは信仰深い宗教家にも同じことが言える
キリスト教信者が多い社会(≒無神論者が煙たがられる?社会)に向けた論の展開を感じるlemonadern.icon
まあ言っていることは同じだけどlemonadern.icon
自分の頭で考えることとはどういうことか
「自分の頭で考えること」の意味するところは、「もう少し謙虚になること、自分の存在や確信していることを見つめ直すこと」である
「根拠なく自動的に正しいと信じてきたことは大方間違っていたし、それで痛い思いもした」
「自分の頭で考える」ことはつまり「根拠なく自動的に正しいと信じたりしない」ことで、先の話に絡めるなら「傲慢でない」ことlemonadern.icon
「自動的に正しいと信じてきたこと」の例
「ぼくの周りにあるものは、ぼくが宇宙の中心にあるのだという信念を支えるためにある」
普段我々はこのように考えないが、実際のところ我々のほとんどはこう(=> デフォルト設定)
自分の経験は、自分が中心でないとありえない
自分が中心であると信じるように「プログラムされている」
=> 先天的なデフォルト設定lemonadern.icon
経験をするのはいつだって自分。自分が中心としてしか物事を捉えることができないlemonadern.icon
伝えたいこと
「人徳について話すつもりはない。これは人徳の問題ではない」
思いやりを持って人の立場に立とう、という話ではないlemonadern.icon
これは「先天的な自己中心的なデフォルト設定をいかに抜け出すかという問題」である
デフォルト設定を変更するちからがどの程度知識や知力に依存するのか
「学術的教育の最たる問題は、物事を過剰に学術的に捉えるようになり、自分の頭の中の抽象的な議論に終始することで目の前の現実に注意を払わなくなってしまうこと」
これ耳が痛いかもlemonadern.icon
リベラルアーツ教育の意味(まるごと引用)
みなさんもお気づきでしょうが、自身の頭の中の独白に催眠されることなく、周囲に注意を払い続けるというのは非常に難しいことです。
大学を卒業して20年が経った今、リベラルアーツ教育の肝である「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。
つまり、研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。これができないと人生はツラいものがあります。
「意識は優秀な執事ではあるが、最悪な主である」という、これまた陳腐な表現が意図することです。
「自身の頭の中の独白に催眠されることなく、周囲に注意を払い続ける」=> 自分の思い込み、デフォルト設定から抜け出して現実を見つめる?lemonadern.icon
「自分の頭で考えられる」とは、「何について考えるか自分でコントロールできる」こと
「研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。これができないと人生はツラいものがあります。」
考えるべき対象を選び、意味を抽出できないと辛いlemonadern.icon
「意識は優秀な執事ではあるが、最悪な主である」
正直これはうまく説明できない、あまり陳腐にも思えないlemonadern.icon
前段の続き
この陳腐な表現も、他の陳腐な表現と同じように表面的にはつまらないものですが、その奥には壮大で悲惨な事実が隠されています。
銃器で自殺をする大人の大半が、自分の頭を撃ちぬくというのは、「最悪な主」を殺すためです。そして、そうやって己を殺める人のほとんどは、銃の引き金を引く前に既に死んでいるのです。
「インチキなしの」リベラルアーツ教育の目的
ぼくの考える、インチキなしのリベラルアーツ教育の目的とは、「いかにして心地よい、豊かで、凛とした社会人生活を送り、ゾンビのように、無意識で、自我および唯一の完全な凄まじい来る日も来る日も訪れる孤独のドレイとなるのを回避するか」を問うことです。
「来る日も来る日も」
社会人生活の大きな比重を占める部分
退屈
つまらない苛立ち
以下の数段落は例になっている
「来る日も来る日も」訪れる退屈や苛立ちの例
「やりがいのある、知的階級の、大卒のための」仕事へ行き、それを追えたら家に帰って早めに寝たいと思う
早めに寝たいのは、「やりがいのある」仕事を明日もするため
食べ物がないのでスーパーに買いにいかねばならない
「正直世の中でもっとも今いたくない場所」...
前段落の続き
「こんな経験があるでしょう」、しかしこれはまだ(学生であるあなた達の)「生活サイクルの一部ではありませんよね」
「考える対象を選択すること」が重要
これから先の人生は違います。面倒くさい、無意味に思えることが、これからいくつも生活の中に生まれます。でも、大事なのはその事実ではない。大事なのは、こういった日々のつまらない、苛立ちを覚える場面でこそ、先に述べた「考える対象を選択すること」が重要になるのです。
何を考えるか自ら選択しないと、ぼくは買い物をする度にイライラすることになります。先に述べたように、デフォルト設定では、「ぼく」がセカイの中心にあるからです。
社会派バージョンのデフォルト設定の例
「言いたいことはわかると思います」
デフォルト設定の考え方
我々の多くは、スーパーや渋滞で先のようなことを考えている
でもそれは選択しているとは言わない
簡単で自動的(=> デフォルト設定)
何も考えず、自分がセカイの中心にあると無意識に思い込み、自分の感情と欲求が物事の順序を定めているという理解のもと、つまらない、イライラする、混雑した生活を過ごせば、自然とそうなります。
違う考え方をしてみる(渋滞での例)
違う考え方をしてみる(スーパーでの例)
道徳的なアドバイスをしているわけではない・これは難しいことだ
ぼくは道徳的なアドバイスをしているわけではないです。そういう他人の立場に立った生き方をするべきだとか、自動的にみんなそれができるべきだとも言うつもりはないです。なぜなら、そう簡単にできることではなく、努力と強い意志が必要で、もし君たちがぼくのようなら、どうあがいても出来ない日というのもあります。
こう考える(選択する)のは難しいことである
努力と強い意志が必要
できない日も当然ある
違った目で見てみると
でも大抵の場合、何を考えるか選択する心の余裕があれば、レジで並んでいる、目の死んだ厚化粧の母親が子供を怒鳴る光景を、少し違った目で見れると思います。
(中略)もちろん、これらはどれも現実味のないことです。でも、全くありえないことでもありません。君たちが何を考えるかによります。自動的に現実が何かを確信している、つまりデフォルト設定で行動しているなら、君たちは先のぼくのように、イライラしたりムカついたり以外のことを考えないと思います。でも、周りに注意をはらえば、他の可能性も見えてきます。混雑した、蒸し暑い、遅々とした、消費文化の地獄とも思えるスーパーの一場面に、意味を見いだすだけではなく、星々を作り出すような熱い思い、純然たる清い経験、愛、仲間意識、そして心の奥底にある神秘的な一体感に変えることも可能です。
心の余裕があれば、デフォルト設定に基づいた考え方以外の可能性を想像できるlemonadern.icon
「消費文化の地獄とも思えるスーパーの一場面に、意味を見いだすだけではなく、星々を作り出すような熱い思い、純然たる清い経験、愛、仲間意識、そして心の奥底にある神秘的な一体感に変えることも可能」
どう物事を見るかは自分で選択できる
唯一無二のシンジツとは、「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということです。これこそが君たちが受けた教育が生み出す自由の意味です。「適応力がある」という表現の意味です。何に意味があって何に意味がないのか自分で意識的に決められること。何を信じるか自分で決められること。
「どう物事を見るかは自分で選択できる」ことだけは確か
「自由」
「適応力がある」
=> 「君たちが受けた教育」(=リベラルアーツ教育)が生み出す「自由」の意味
みんな何かを崇拝して生きている
少し変に聞こえるかもしれませんが、日々の暮らしの中に無神論というものは存在しません。みんな何かを崇拝して生きています。我々に与えられた唯一の選択は、何を崇拝するかです。
何を崇拝するか、自分で選択するのだlemonadern.icon
「神や神秘的対象を信じるのは、それ以外の大抵のものは我々を食い尽くすから」
お金やモノを崇拝 => いつまで経ってもみたされることはない
体や美しさ・性的魅力を崇拝 => 自分の醜さに苦しむ、死ぬまでに何度も心の死を経験する
「我々はこの事実を一定のレベルで理解している」
=> すでにありふれた表現として存在している(=> イイ話)
大事なのは、この事実を我々の意識の中に常にとどめておくことです。
デフォルト設定の崇拝
崇拝の対象ほかにも
権力を崇拝 => 脆弱を怖れ、いつまでもさらなる権力を欲する
知性を崇拝 => 「知的に見られることでかえって自分の無能さを自覚し、自分はまがい物だと感じ、いつかそれがバレるのではないかと怯えて生きる」
こういった崇拝は無意識のうちに行われる
邪悪だから・罪深いから厄介なのではなく、無意識(=>デフォルト設定)だから厄介
こういったタイプの崇拝がやっかいなのは、邪悪だとか罪深いとかいうわけではなく、無意識に行われているということです。デフォルト設定の崇拝なわけです。毎日毎日少しずつ、気がつかないうちに自分の判断基準が狭まっていくことにすら気がつかないタイプの崇拝。
現実社会とデフォルト設定、自由の定義
さらにやっかいなのは、いわゆる現実社会は、君たちがデフォルト設定で生きていることをよしとしています。
デフォルト設定の崇拝に起因するエネルギーが、「巨万の富と快適さ、個人の自由を実現」している
セカイの中心にぽつんとある、1人1人の頭の中の、頭蓋骨サイズの自由の王国。確かにこういった自由は大事ですが、自由の定義は他にもあります。欲求と達成にとらわれた社会では無視されてしまう自由です。その中でも特に大事な自由が、まわりに注意を払い、意識的にものを見つめ、自制心を持つことで得られる自由。誰にも見えないところで、毎日毎日、自分以外の人々のことを思い、彼らのために犠牲をはらい生きる自由。
「1人1人の頭の中の、頭蓋骨サイズの自由の王国」=> デフォルト設定
「欲求・達成に囚われた社会では無視されるような自由の中でも特に大事な自由」
「まわりに注意を払い、意識的にものを見つめ、自制心を持つことで得られる自由。誰にも見えないところで、毎日毎日、自分以外の人々のことを思い、彼らのために犠牲をはらい生きる自由。」
それこそが本当の自由
前段より「まわりに注意を払い、意識的にものを見つめ、自制心を持つことで得られる自由。誰にも見えないところで、毎日毎日、自分以外の人々のことを思い、彼らのために犠牲をはらい生きる自由。」こそが本当の自由
=> 本当に教育をうけるということ(=リベラルアーツ教育を受ける)
=> 自分の頭で考えるということ
デフォルト設定の対極にある生き方
「無意識、デフォルト設定で、小競り合い、モノやカネを持っている持っていないに執着する無限ループの対極にある生き方」
この話はシンジツである
今日の話は、ぼくが考える修辞学的なまやかしをひっぺがしたシンジツです。
シンジツとは、死の前にある生のためのものです。
シンジツとは、本当の教育の本当の価値のことです。それは知識とはほとんど関係のないもので、たった一つのコトに集約されます。限りなくリアルで、根本的で、でも我々の目にはなかなか見えず、絶えず自分に言い聞かせなくてはいけないコト。
教育の本当の価値
自分の頭で考えられるようになること
何を考えるかを選択すること
知識とは関係がない
なかなか見えない
当たり前過ぎて見えない(=> 水・寓話)
だから絶えず自分に言い聞かせなくてはいけない(=> 意識のなかにとどめておく)
これは水です。
これは水です。
日々と教育
意識的に、社会人生活を日々送ること。これが非常に難しい。「教育は一生の仕事だ」という、これまたありふれた表現になりますが、事実なのです。そしてその教育は、今、この場所で始まります。
「意識的に生活を送る」
意識的に自分が何を信じるのか選択する
「教育は一生の仕事だ」
教育 = 「日々、意識的な生活を送ること」= 自由であること
幸運以上のものを、君たちに祈っています。
#wip
言いたいことの概要を書き起こせば陳腐な表現になる、自明に聞こえるし、それについて議論することが時間の無駄に思えるかもしれないがそれが大事なんだ、と主張することにそこそこの分量を割いているように見える
自分の言いたいことをまとめたらありきたりなものになってしまった、というのは見に覚えがある。経験して初めて実感できるものだからしょうがないか、と思っていた面があったけど、こういう説明のしかたがあるのかーと参考になったlemonadern.icon