「慣れのせいにする状況」を恐れる
読んで考える
わたしがテスターとして恐れる「慣れ」について
「慣れ」の違和感
失敗を「慣れのせい」にするときに釈然としない気持ちになる
慣れているのはいいことのはずだ
より良い製品をつくるために製品や開発に関する知識や失敗を含む経験は不可欠です。知っていることが増えれば増えるほど、調査や試行錯誤にかかる時間、ゴールに到達するまでの時間を減らせます。
「製品の細部にまで自分たちの知見(あたたかい血)を巡らせる」
経験・知識・知見などを得る = 慣れる
慣れていない専門家 vs. 慣れている自分たち
たまに(製品に慣れてない)専門家のほうが多くのバグを出せると言われ、返答に困ることがあります。ほんとうにそうでしょうか? もしそうだとしたら、それは単に自分たちがうまくないだけです。とことん製品を知り尽くすべきだし、圧倒的に慣れたほうがいいのです。
慣れていない専門家のほうがより多くのバグを出せるとすれば、慣れている自分たちが単に「うまくない」だけの話
やはり慣れているほうがいいはず
慣れをコントロールできないとき
いつも見ている画面に使いづらさを感じなくなっていた
応答の遅れを、「やっている処理を考えればこんなものかな」と見逃した
慣れを見逃してしまった
本当に「慣れているから」見逃した?
正当性と慣れ
おかしいコードはいつ見ても(見慣れても)おかしいはず
「慣れすぎて」が言い訳のように聞こえてくる
人は認知バイアスで間違った判断をすることがある
だからしょうがないものだ、とするのが違和感の正体なのかもしれない
信じられないものを信じている
「おかしいものを見てもおかしいと思わなくなっている」
「信じられないものを信じる練習をしてしまっている」
これは「慣れ」ではない
思い込みにまみれた自分に自覚的になる
「自分は信じられないものを信じる練習をしているのかもしれない」と思う
現象だけではなく、何故そうなるのかを考える
仕組みに疑問をもつ
それを踏まえて、許容できるか考える
信じることがあるなら、根拠を挙げてみる
権威に頼ったり、仕様だから、とするのはダメ
伝統的なデザインは「今も」素晴らしいのか考える
「ずっと前からそうなっている」を免罪符にしない
なぜ今も素晴らしいと言えるのか説明してみる
見送り・とりあえずといった言葉に目を向ける
「信じる練習済み」の仕様がそこにある
自分の意識下にある前提や目の前の当たり前をひとつひとつ疑う
異常の有無にかかわらずやる
「慣れのせいにする状況」を恐れる
「慣れ」ではなく「慣れのせいにする状況」を恐れるのが良さそうですね。これなら自分でコントロールできるから恐れなくてもいいのかも。