空のdiv要素についての哲学的な話
主義主張の色が強い話題には古くから培われた哲学的な視点が役に立つ。
哲学者たちが残してきた原理・原則から、こうした問いをどのように解決できるかを考える。
話題の本筋はこのあたり
当為について
「当為」とは、「あるべきこと」、「なすべきこと」である。
これと対比される概念には、「あること」(存在)、「あらざるをえないこと」(自然必然性)がある。
今回の話題において
「空のdiv要素は許容すべきでない」は「禁止すべき」という当為の言い換えである
「空のdiv要素は許容すべき」も当然当為である
つまり2つの正反対の当為の対立である
当為と命令について
当為は往々にして「こうあるべき」だから「こうしろ」という命令の形を取る
命令は、無条件に従うべき当為として命令する「定言命法」と、条件付きで「こういうときはこうすべき」と命令する「仮言命法」に分けられる
定言命法は実現可能性、完全性の欠如が見られることが多い
実現可能性の欠如: どれだけ「やるべき」といったところで間違いや不足、不可能な状況は生じうる
完全性の欠如: 閉じたグループならまだしも、多様な意見があるなかで「こうすべき」にはほぼ必ず矛盾する「こうすべき」が同時に存在しえる(対立する)
仮言命法はその命令のスコープを絞ることで納得しやすくなるが、新たに必然性、蓋然性の課題が生まれる
今回の話題において
「HTMLの仕様に準拠するならば」という枕詞があるならば、それは仮言命法である
言い換えるなら「HTMLの仕様に準拠したい」という欲望をもつ人に向けた命令である
「仕様がどうあれ空divは禁止/許容すべき」という姿勢であれば、それは定言命法である
事実から当為は導けない
「ヒュームの法則」とも呼ばれる
事実(である)から、論理的推論のみで当為(べき)を導くことはできない
今回の話題において
もともとの焦点は「HTML仕様は空のdivを認めているかどうか」という事実認識をめぐるもの
これは論理的推論の問題であって、当為の話はしていない
しかし不定であったことで認識(解釈)レベルでの対立が生まれている
認識には必ず当人の欲望が影響する(欲望相関性)
ところで、たとえHTML仕様が空のdivを認めていてもいなくても当為(すべき)は導けない
なぜならその当為は「HTML仕様には従うべき」という別の当為を暗黙の前提とした飛躍である
「HTML仕様には従うべき」は定言命法に近い
たとえば「そんなこと知らないよ動けばいいじゃん」派との対立を解消する手段を持たない
人間の推論の限界について
個人にせよ集団にせよ、およそ人の下す推論は正しいとは限らない (ホッブズ)
人間には「絶対に正しい推論」は不可能である
論争を暴力なく解決するには裁定者・審判者を仰ぎ、その決定に服す以外に方法はない
二者がそれぞれの推論の結論において対立するのであれば、両者が裁定者と認めた第三者が下す判定が必要となる
今回の話題において
おそらく冒頭の記事は「空のdivの良し悪し」という論争を解決するための裁定者として「HTML仕様」を仰ごうじゃないかというのが趣旨だと思う
仮にそこでHTML仕様が良し悪しを明言していたとしても、それを「仰ぎ服する」ものだと共有できている相手にしか意味はない
さらに記事を読む限り、明確な良し悪しは書かれておらず解釈が交じる余地があることが改めて確認されたようであり、裁定者としては機能しなかったようである
両者が仰ぎ服する裁定者が現れない限り論争が終わることはない
たとえば「Googlebot」とか(検索のスコアに影響すると言われるとか)
総括
最初は「中身のない空の div 要素や空の span 要素は HTML 仕様として妥当なのか?」という問い
これは論理的推論の結果、HTML仕様としては不定だという結論がくだされたと見える。
少なくとも明快に書かれてはおらず、推論に個人差が生まれる状態にある
この議論から「空のdivについてを禁止/許容すべき」(当為)に向かうのは飛躍である
その当為は「HTML仕様には従うべき」という当為を暗黙の前提に飛躍している
事実から当為は導けない
当為の裏には必ず欲望がある
「空のdivは禁止すべき」という当為は「空のdivに存在してほしくない」という欲望の現れ
それはなぜか、ニーズを深く遡っていく
当為(行動)のレベルでは衝突することも、欲望のレベルでは共感できる余地は大いにある
両者が互いに「確かにそのニーズは理解できる」という了解に至ることができれば、その互いの欲望を解決するためには何が必要かという「条件解明」のための議論が始められる
これが哲学的対話の基本の流れ