単位を落とした学生からの救済依頼メール
この記事を執筆している2022.08.02時点で,今まで金澤は,東京工業大学(3年)と筑波大学(3年4カ月)での助教勤務経験がある.そして,しばしば(いや毎年?),単位を落とした学生から救済依頼の非公式メールを受けることがある.これについてコメントする.
教員も人間であり,採点に瑕疵がないとは言い切れない.よって,成績に関する異議申し立てを行うことはまったく構わない.これは大前提である.しかし,異議申し立てを行うなら,異議申し立てを行う正当な理由を説明してほしい.間違っても救済依頼だけを根拠なく私に要求しないこと.
妥当なケース vs. 妥当ではないのケース
まず,妥当だと考えられる2パターンを挙げる(他にもあるかもしれないが):
1. 成績チェックの依頼:構わない.依頼されれば,再チェックして点数が間違っていないかを確認する.
2. 単位を落とした理由の質問:これも構わない.妥当だと思う.ただし,解答できる場合と出来ない場合がある.金澤一人の授業であれば,公開可能な部分については説明可能かもしれない(全部公開する保証はしないが).複数名で運営する授業の場合は,金澤の一存では決定できない.ケースバイケースだと思うので,個別に問い合わせてほしい.
さて,問題なのは「特に正当な理由なく,『救済』を依頼するケース」である.「この単位がないと留年してしまう」などという枕詞がついて場合もある.残念なことに,このような依頼はちょくちょくあり,当然であるが全て一律に断っている.私が考える論点は2つある.
論点A. 教員にとっての法的リスク
「救済」依頼のメールというのは,教員に懲戒処分のリスクがある不正行為を教唆している
と理解するべきである.学生は,その「救済」依頼が教員の人生を狂わせる可能性を秘めていることを知っておいてほしい.
論点B. 学生間での不平等性
また法的な問題を度外視したとしても,学生はそのような要求はズルいという意識を持つ必要がある.教員は職業倫理上,全学生を平等に扱う義務がある.しかし,単位認定後に意義を申し立てた学生だけを特別対応するというのは,明らかに全学生を平等に扱っていない.もし再試験を行うなら,その学生だけではなく全ての学生を集めて再試験を行うことが妥当だろう.果たして一人の学生が単位を落としたからといって,全学生を呼び出して再試験を課すことが妥当だと考えられだろうか?
ちなみに学生間でも平等性に関する意識が近年高まっている.よって,特定の学生を「救済」した場合,他の学生からその不平等な対応に関する苦情が来る可能性が本当にある.よって,「救済」に応じることはそういう意味でもリスクが高い.
関連事項:〆切後のレポート提出について
類似案件として,〆切後にレポートを提出してくる学生もいる.殆ど上記と同様の理由により,受け取りは一律で断っている.実際,〆切後に個別問い合わせをした学生のレポートを受け取った場合,〆切を過ぎてレポート提出を諦めた他の学生に対して不平等である.もし〆切後にレポートを受け取るなら,全員のレポート提出時刻を遅らせるべきではないか?(平等性の観点による).よって,金澤は〆切後のレポート提出は基本的に一律で認めていない.逆に「〆切後の提出を一律で認めないことで平等性を担保している」と読み替えてもらっても構わない.
特殊な事情がある場合の特別対応の余地はあるか?
特殊事情があって,レポート提出が遅れる/授業に出席できない時がある/試験に参加できないことはあるかもしれない.そういう場合は教員は対応するべきだろうか?
一般論として,「社会通念上,客観的にやむを得ないと認定するのが妥当である」場合は,特別対応をする余地があると金澤は思う.例えば,2022年度における筑波大学では,
新型コロナワクチンの接種に伴う体調不良
新型コロナ/インフルエンザに感染した事による体調不良
などは場合によっては(常に保証するわけではないが),公的な理由として認定することができる可能性がある.レポートの延長や再試験を実施することも,検討の余地があると考える.ちなみに,全教員が金澤と同意見だと保証するわけではない.実際,2022.08.04時点では東京大学で新型コロナ感染症の学生に対する救済措置を断っており,話題になっている. 東京大学教養学部2年生の男子学生が、新型コロナウイルスに感染したことが理由で授業を欠席し、補講が受けられなかったため、単位が認められず、留年が決定したことが分かった。... 杉浦さんは、コロナ感染により「理不尽なアカハラを受けた」と主張し、現在、東京大学ハラスメント防止委員会に救済を求めているという。
現時点では最終的な結論がどうなるかわからないが,判断が分かれる点だと金澤は感じる.何故なら学生を「救済」しつつ採点基準に関する平等性を担保するのは容易ではなく,ある程度のトレードオフがあるからだ.
他にも「やむを得ない事情」はあるかもしれないが,それは個別認定にするのが正しいのではないかと思う.金澤個人が私的に考えるポイントは「特別対応をした事実を他の学生が知った時,それを不当だ/不平等だと思わないか」というのは重要だと思う.これは職業倫理上の平等性の観点に依る.いずれにせよ,説明可能性(accountability)が重要だと考える(注).例えば
予めわかっている持病がある(持病の公的証明書を提出できる)ため,レポート〆切を普通より遅らせてほしいケース
は,社会通念上妥当だと考えられる可能性が高い.このようなケースについては,事前に相談があれば,教務と協議した上で特殊対応が可能かもしれない.できるだけ早めに相談してほしい(但し,事前に相談すべきである).
実際,インフルエンザなどに関しては「出席停止」という概念がある.これは,感染症に罹患している学生が無理に大学に来て,他の学生に感染させることを防ぐための概念だと思う.「出席停止」はある程度公的な理由だと思う.新型コロナへの罹患は,この「出席停止」の概念に準じてその公的理由を認定しても良いのではないかと金澤は思う.これなら説明可能性の余地がある.ただし,特別対応を行うことが大学側の義務だとは思わないでほしい.これは教員/学科/大学によって考え方が異なると思う.
教員目線では認められない「やむを得ない理由」
一方,学生は「やむを得ない理由だ」と主張するが,教員目線では全く理由になっていないものもある.例えば,
部活動などにより「公欠」だからやむを得ないという主張,
就職活動に関する多忙/欠席は仕方がない理由であるという主張
などがある.これらは少なくとも金澤にとって,全く正当な理由とは思えない.そもそも単位認定は,「学生がその科目の内容を学習/取得できている」ということを,社会に責任をもって保証する制度である.つまり原則論として,学生が適切に学力を伸ばしていない限り,単位を認定すべきではない.部活動の行事で勉強時間が削減された場合,それは学生の学力低下する原因になることはあっても,学力が高まる理由にならない.また就職活動を行うことは学生の人生にとって当然重要ではあるが,単位認定の論拠にはならない.単位制度の意義を考えれば当たり前のことだと金澤は思う.
大学の社会的意義/役割から考える単位認定
もう少しポイントを言い換えてみよう.「社会にある学生の学力を保証する」のが単位認定の肝である以上,教員と学生の間で事情が閉じていないという事は重要な論点だと思う.大学は社会に対して,卒業学生の学力保証を行う機関でもある.つまり,適当に学生に単位を与えてしまうと,大学はその社会的使命を果たすことは出来ない(その意味でも「学生」は大学にとっての純粋な意味/商業的な意味において「客」ではない).社会の都合がある以上,社会に対して適切な説明を行うことが求められている.そして社会的使命を果たすことができないと,大学は社会的信用を失ってしまう.
こういった複数の観点を考えたときに,「学生の特殊事情」が本当に「やむを得ない」と認定できるかを総合的に判断する必要があると金澤は思う.
追記(2022.08.08):感染症により試験を受けれない場合の救済について
病気にかかった学生が試験などを受けることができず,不都合を被ったとする.こういうケースを救済するかしないかは,教員/学科/大学で意見が分かれ得る.何故だろうか?
まず学生視線で見たとき,最も重要なことは「これは学生の責任ではない」ということだろう.これについては金澤は同意する.感染症は学生の責任ではない.しかし,逆に(特殊なケースを除いて)「学生の感染は大学/教員の責任ではない」のではないだろうか?
感染症の場合,誰にも責任がないと金澤は感じる.敢えて言えば病原菌が責任を取るべきだろうか(不可能だが).しかし,もし病気の学生を救済するなら,その追加コストを支払うのは教員/学科/大学になる.教員を労働者として見た場合,教員に責任がない案件において,追加コストを支払うのが教員なのは果たして自明な意思決定だろうか?
もちろん,学生にとって最良のサービスを提供することは我々の職務として望ましい.なので金澤個人は,適切な理由があるなら,学生間の公平性に配慮して救済措置を検討する余地はあると思う.しかし,それは職務上の義務だとは金澤はあまり思わない.こちらの善意として,もし学生間で公平性を保ったまま,病気で不都合を被った学生を救済できるなら(もしくは規則として定めているなら),それはやるべきだと思っているだけだ.
ここの大原則を理解しないなら,世の中のすべての試験(TOEFL,TOEIC,英検,大学入試,高校入試,高校の中間試験などのすべて)は感染症に罹患した欠席者に対して,常に補償(返金対応含む?)をすべきという話になってしまう.もちろん補償がある場合はあるだろうが,補償する義理も義務もないと金澤は思う.大人は他人に過度に責任転嫁するものではない.
たまに,「学生を一人前の大人と看做すか?まだ未熟な救済対象と看做すか?」という思想の部分で意見の相違があると金澤は感じる.後者は家父長制的な考え方だと金澤は思う.後者の考え方に立てば,「可哀そうだから」という理由で救済すべきことになる.SNSなどでも暗にこちら寄りの意見が多いように感じる(こういう考え方は保守そのものだと思うが,大学教員は暗にこう考え方をする人は多いように感じる.ちなみに金澤は前者寄りの立場だ).前者の立場に経てば,救済するかどうかはケースバイケースなのではないかと思う.
ケースバイケースと言うのは,純粋な制度設計として,感染症に罹患した学生をある程度救済するほうが良いと金澤は感じることが多いからだ.たとえば,感染症学生が後に追試などを受けることができない場合,学生は感染の事実を隠してテストに臨むことが予想される.これはもちろん学生の健康に悪いが,それだけではなく学内感染を増加させるため,大学にとっても都合が悪い.つまり純粋に大学側だけの利得を考えたとしても,感染症学生を救済するメリットがある.また,感染症に罹患した学生に冷淡に対応することは学生目線で当然印象が悪い.大学経営を考えたとき,学生目線で良い印象を与えた方が学生募集の意味でも良い(学生はより学生に寄り添ってくれる大学を選択する権利が当然ある).そういう意味では,学生に冷淡に対応することは戦略的に合理的ではない.こういう論点を総合的に考えると,社会通念上説明可能な範囲で救済制度を用意しておくことは金澤は合理的だと思う.教員としても,ルール化されていて予め発生しうる追加コストを見積もることが出来れば,追加救済のコストを払うことを(労働者契約として)事前に合意できる.特に事前に救済制度を明示化できれば,学生間の公平性を保つことが出来る.
注:「労働者としての教員」という視点を私は大事にしたいのだが,これは非常勤講師の場合により深刻になると思う.何故なら非常勤講師は時給制で給与をもらっているが,学生救済時に追加レポートを用意するコストを,大学に対して補償を求めるのは,現在の大学の状況だとあまり現実的ではないからだ.つまり,非常勤講師の無給労働問題に広い意味で関わる話題だと思う.我々常勤職員の場合,この問題は見えにくくなる.
当然ではあるが,学生と教員はwin-winの関係になれることが望ましい.ここらへんの制度設計は是非誰かが研究してほしい.(テーマとしては経済学部か工学部だろうか)