補足:数学が得意だが国語ができない学生
公開日:2026.03.27,最終更新日:2026.03.30
Twitter上での反応を見て何点か補足しておこうと思う.
補足1:理学書での解答の発見過程を論理的に記述することは難しい (2026.03.27加筆)
数学/物理の問題というのは,「答えを論理的に記述する」ことができても,答えを発見する過程は言語化しやすいものとは限らない.単に手を動かして計算しながら試行錯誤して,答えを「発見」した後に,その答えが正しいことを論証しているだけだったりする.積分計算なら,謎の変数変換が天下り的に導入されて答えが論証されていたりしないだろうか?謎の変数変換は試行錯誤して見つけたのであって,その発見過程が言語化しやすいものである保証はない.言語化できないものは記述できないため,本では天下り的に導入されて説明は終わりである.読者は「どうやって発見したのだろう?」と途方に暮れるかもしれないが,それは先人だって試行錯誤して見つけたのだから説明できないだけである.頑張って覚えるか,自分でも試行錯誤して再発見する努力をしてみよう.
つまり,理数系の人間の「シコウ過程」というのは,自然言語的な意味で「思考」している時もあるが,色々と手をひたすら動かして「試行」しているケースを指すことも非常に多いのだ.自然言語で記述できる「思考過程」だけではなく,色々と手を動かして結果的に答えが見つかる「試行過程」では,自然言語的な記述のしやすさが全く異なる.後者は(通常の自然言語の意味では)論理的にクリアに記述できない.記述できないなら試行錯誤した後に「再発見」するためのサポートをするだけである.そういう「試行錯誤」が必要な部分が,無視できないほど存在するのが理学書である.だから,我々は「手を動かして自分で発見する努力の過程」を教育課程で強調する(ちなみにだからこそ大講義とは相性が悪く,少人数ゼミと相性が良い;試行錯誤するなら一人で家にこもって計算するか,少人数で議論しながら計算した方が良い).
以上のことを,誤解を恐れずにキャッチフレーズ的にまとめるなら「理学書の記述は論理的だが,その答えを発見する過程は別に(自然言語の意味で)論理的ではない」ということだ.一般的に知っておいてほしい事実だが,
答えを発見した後に「それが正しいこと」自然言語でを論証することが容易でも,「その答えを発見することは非常に難しい」のだ.
答えの発見過程が容易に言語化できる問題とは,いわゆる「パターン問題」と言われる簡単な問題だけである.少しでも捻ると,色々と自分で気づいてもらい,ちいさな「発見」を積み重ねてもらう必要がある.なので,理学書は読者が(小さな)「発見」を繰り返し練習してもらうサポートのために書かれている.論証可能な答えを読者が発見する練習ができたのであれば,そのプロセスが別に著者の意図とずれていても構わない.自然科学は究極的には対象が「自然」であって,人間ではない.著者の本音としての解釈とかは,本質的にはどうでも良いものだと多くの人は思っている(※これは程度問題だが,単純化した科学者の世界観はそういうものである.エッセイなのだから多少過度に単純化した言い切りを許容してほしい).「著者の試行錯誤のメモ」を見て,読者が正しい答えを自分で再発見をできるのであれば,それで構わない.そして発見過程が著者とずれていても,数学で言う「論理的に正しい解答」は,論証が正しければその「事実命題の真偽」については「解釈依存性は存在しない」ので,著者の解釈に依存しない普遍性が理学書だと多くの場合は期待できる(※物理は実験科学なので「常にそうだ」とは言わないが,ある程度は)ため,それで構わない.これはいわゆる「著者の解釈」との一致性を気にする人文系とは大きく異なる点である.
ちなみに物理においては「解釈」というのは,「便利だから多少は重要視するが,本質的にはどうでも良いものである」と思っている人が多い.物理は実験科学であるため「実験に引っかかるかどうか?」を重要視する人が多い.実験で検証可能な事実命題「予測」と呼んで,とても大事にする.そうでないものを「解釈」と呼んで区別する.解釈は理論の理解を補佐するため,教育課程ではある程度教えるが,実験に引っかからないのでその重要性は二次的である.そういう価値観の人間がこの文章を書いている.
補足2:理学書の多くは現代的視点から書かれている (2026.03.30加筆)
ところで,物理学では具体的な方程式を発見した研究者の解釈/思想にはあまり興味がないので,歴史的な経緯にも一般的には興味があまりない(※興味を持つこともあるが,必須ではない).その一環として,原典を読むことに意味はほとんどないと指摘しよう.いろいろ具体例をあげよう:
Newtonの運動方程式を理解する上でプリンキピアを読む必要はない.そもそも今の形にNewton力学を整理したのはNewtonではなく,たとえばEuler達である.
古典電磁気学を理解する上で最重要な方程式はMaxwell方程式だが,Maxwell方程式を理解する上でMaxwellがどのように電磁気学を考えていたか,知る必要はない.Maxwell自身はMaxwell方程式を「機械的な世界観」で理解することに興味があったが,それは教育課程では教えないし,知ることで何か電磁気学の理解が深まるわけではない(というより,科学史に興味がない限り避けた方が良い).今の形のMaxwell方程式を整備したのは,たとえばHeaviside達である.
ちなみに相対論ではEinsteinの著作が非常にわかりやすいため現代でも読む人がいるが,これが原典を知りたいのではなく,単純に良い著作だったからというだけのことである.
一般的に物理の教科書は「現代的な視点」から書かれることが多く,歴史的な解釈や元々の発想を,そのまま伝えようとしていない.むしろ「現代的な視点から本を書く」というのは,元々の経緯/解釈/発想を積極的に無視し,「同一の結論を再発見」するための別の筋道を提示することを指すと金澤は解釈している.つまり,物理の多くの教科書が提示するストーリーは科学史的には正しくないし,むしろ科学史的な正しさを積極的に無視した「別のストーリー」を提示することに意味がある.X学の本の著者は,「X学を再発見するためのストーリーを自分で作り直した」という話をしていている.
こういう「X学の再発見的なストーリー」を自分で構築することは,理数系学問の習熟方法として標準的なことである.つまり大抵の優秀層の学生は,X学の本を読んだ後に「その本に触発されて自分なりのX学の再発見を行う」ことを日常的に行っている.ここでの理学書は「学生を触発するため」の存在であり,読者は理学書を書いた著者の視点を引きずる必要もないし,著者の解釈に同意する必要もない.なんなら著者が何を言いたかったのか,正確に読み取る努力をする必要もない(※事実命題の真偽だけは正確に判定できる必要がある.そして事実命題の真偽を読み取る能力は,普通の意味での「国語力」とあまり関係していない.だからこそ「国語ができないのに数学ができる学生」はたくさん存在するのだと金澤は主張している).理学書の著者に書かれている事実命題を踏まえて,本文に書かれていないことを含めて自分で自由に考えてよい.理学書を読んで,著者の主張や解釈を読み取ることに時間を使っても良いが,それよりはX学を再発見するための自分なりのストーリーを構成することに時間を使った方が生産的であり,わかりやすいご利益としては,テストでの成績も良くなるだろう.