「テクスト」と「テキスト」のちがい
語がよくにているが中身は別物。
しかし「テキスト」という概念の発生にはロラン・バルトの「テクスト」が必須であろう。
ロラン・バルトの「テクスト」論について「内田樹著『寝ながら学べる構造主義(文春新書 2002)』より引用」しながら解説するブログの記事(ボクらはなにを選んだ?「ロラン・バルト「テクスト」理論-作者の死-」)から、内田樹のことばを引用する。
作品の起源に「作者」がいて、その人には何か「言いたいこと」があって、それが物語や映像やタブローや音楽を「媒介」にして、読者や鑑賞者に「伝達」される、という単線的な図式そのものをバルトは否定しました。
(中略)
テクストが生成するプロセスにはそもそも「起源=初期条件」というものが存在しないとバルトは言い始めたのです。そのことを言うために、バルトは「作品」ということばを避けて、「テクスト」(texte)ということばを選びました。
「テクスト」(texte)とは「織り上げられたもの」(tissu)のことです。
この「織り物」はさまざまなところから寄せ集められたさまざまな要素から成り立っています。一編のテクストが仕上がるまでにはほとんど無数のファクターがあります。(中略)それぞれのファクターはてんでに固有のふるまいをします。しかし、それらが絡まり合って、いつのまにか「テクスチュア」(texture)は織り上がります。
「まとまりのある文章」には作者の意図などは存在せず、単語という記号列の集合たる「まとまりのある文章」はその並べられた規則によって意図を生じさせる、ということなる。意味は作者の側になく言語の側に発生する。これは思弁的に、 #テキストマイニング の可能性を示唆する。
もし「テクスト」という概念がまだ存在しなければ、テキストマイニングは空疎なおこないを示すことになる。なぜなら、「まとまりのある文章」を定量化=抽象化することでこぼれおちるものが発生すると、「テクスト」以前の世界では定義されていたからだ。テキストマイニングおよび共起ネットワークは「作者の死」以後の世界が許された技術だと言えよう。
#テキストマイニング