物語と当事者意識
当事者にならないと面白く感じない
物語全般を読解できるのに興味がないのはこのせいだと感じている
「なんかこういうことがあったんだな~」で物語に対する感想が終わる
感想に対する明確な苦手意識は結構根深い
キャラクターの成長や変化にも興味がない
キャラクターをパラメータの集合体として扱っているIP(シンデレラガールズとか)では成長のアンチですらある
本が好きな鷺沢文香というアイドルの曲に『Bright Blue』があるが、以下の歌詞はあり得なさすぎる
「ファンタジーな世界に逃げてるだけじゃ本当の私も探せないまま」
個性を消してしまってるやん
そういうのから脱却しているというアイコンとして捉えることは可能だが、じゃあ本のキャラで売るな
登場人物がどう思ってどうした、ということが端的に記載されていればそれで良い
/covelto/情熱ポルノみたいな話かも
情熱とか熱意の話をされてもしょうがない、行動ベースでたのむ
ぼくはM-1グランプリも芸人の出自の説明とかいらないと思ってますよ
ストーリーがあった方がウケるのだろうなとは思う
エロもそうで、自身を置き換えられないと満足に楽しめない
竿役が必要
汚い竿役だと楽しめないのでそこそこ自己評価って高いんだなと思う 滑稽ながら
置き換えられさえすれば同一の立場である必要はない(というか同一は無理だ)
しかし、同時に「自分について考えるときに第三者的」という傾向もある
2023年に函館旅行に行ったが、旅行記が叙述でナレーションみたいになっていた
このcosenseでは一人称を用いず「きっかんが」「きっかんは」と書かれる
当事者意識が必要なことの裏返しとして、自身と他者の違いがついていない?