音MAD(やニコニコメドレー)の定義にまつわる議論
本当にいろんな場所で「音MADの定義」「ニコニコメドレーの定義」という話を聞いたが、着地していない。
しかしこれは当然だと思っている
なぜ当然なのか
定義を置くなら目的が必要
個人の話題か合議かどうかに関係なく、定義を決めるというのは恣意的な(勝手に決める)ものである
定義を定めることによって既存の作品が良くなったり悪くなったりはしない
評価するポイントが新たに増えることはあり得る
議論や考察が広まることはあり得る
むしろ、そのためであることがほとんどでは? と思う
タグはニコニコ動画を利用している人間全員がつけ外しできるのであまり参考にならない
タグから暗黙の了解が形成されることはある
タグをわざとつけない音MADとかがあるのも、知っている……
かつて「○○は定義から外れているので音MAD/ニコニコメドレーではない」という排斥に使われたこともあった
良くも悪くも勝手な線引きとして定義は置くのだという自覚があればこんなことにはならない
しかし、「何のために定義を置きたいのか」ということが定義の論争で話されている、前段に語られることはまれ
TwitterなどのSNSでそこまで含めて議論できる人間は存在しない
これは能力の問題なのではなくそういうことをするプラットフォームではないため
シンプルに拡張され続けている
新たな試みは毎年発生していて、毎年「音MADに含まれる領域」は拡張されているように感じる
人と内容によっては「ついていけない」ことも普通に起こっているだろう
それでも人は定義に思いを馳せる
音MADって何? ニコニコメドレーって何? ってシンプルに思うから
それらについて人に説明をしたいから
以前クローズドな場で話したこととして、どの要素に音MADっぽさを感じるのか考えたことがある
曲と素材の組み合わせは多数語られるが、それだけではいくらでもある、何なら任意の人が任意の曲を歌うだけでそうなる
「素材を本来意図していない形で使用していること」が音MAD的だと感じさせるのではないか、という仮説
企業公式が出した音MADの「そうじゃないかも感」は、そのために用意した素材を使用しているからではないか
今や普通になった手書きのイラスト素材などはそのために用意されているのでは
意識としては生きていて、「手書きをしていてスゴイ」ということがずっと語られる
技術の高さへの評価でもあるだろうが、「本来手書きを用いる場面ではない」という感覚がずっとあるのでは
しょうもないことにめっちゃ努力してると面白い、の一種ではあるかも
音MAD抽象論:多層データベースモデルについての考察(前編)|Yanbaru
音MAD抽象論:多層データベースモデルについての考察(後編)|Yanbaru
定義を置きたい目的が書いてあって神
知見が集まるとうれしい、説明ができるとうれしい
帰納的ではなく演繹的に考える
既存のものから共通点を見出すのは帰納的
これでは拾いきれないというのにはかなり同意
ただ、自分で似たような考察をするなら、「皆は何を見て音MADだと考えるか」を集める、帰納も試しそうだ
私が知りたかったのは「音MADが生産される仕組み」や「バラバラに見える現象を統一的に説明できるような原理」という構造レベルの話でした
抽象的なところで議論が止まっているようで、包括的なことを考えるとそこまでしか行けないのでこれはしょうがなくも感じた
深層データベースにおいては、そのデータベースの要素をひとつでも含む作品はすべて音MADになります
かなり理解できる
そして同時に、その「要素」が新しい動画によって生み出される場合がある
だから扱いが難しいし、なんでもあり
言い張ることによって音MADであると認めさせることができる無法さがある