去年の12月に社員の皆さんへ「なんで会社に来ないといけないんだろう」って話した時のこと|田中邦裕
遅刻というのは、時という概念と人間の行動の間に生じる小さなズレのようなものです。私たちは時計の針が示す時間に、約束された場所に、約束された行動をするようにプログラムされています。だけど、その精密なギアの中で、人の心や体が完璧に機能するわけではありません。電車が遅れることも、目覚ましが鳴らないこともある。だから、遅刻という現象が生まれるのです。
しかし、遅刻が社会で許されないものとして扱われる背景には、時間というものがどのように私たちの生活や心に影響を与えているか、という深い問題が潜んでいます。明治時代以降、日本社会は急速なモダナイゼーションを経験しました。そしてその過程で、私たちは時計という機械に生活をリズムを合わせるようになったのです。
例えば、農業社会では、人々は自然のリズム、つまり太陽の昇る時間や季節の変わり目に合わせて生活していました。しかし工業社会に入ると、機械が稼働する時間、列車が走るスケジュール、工場のホイッスルに人々の一日が決められるようになりました。そしてそれは、個々の内面のリズムを大きく狂わせたのではないでしょうか。
遅刻をした人を責めるとき、私たちは彼らが「時間を守れない」と言います。でも、本当に守らなければならないのは「時間」なのでしょうか。それとも、もっと人間的な、もっと根源的な何かを守るべきなのでしょうか。自分のペースで生きること、自分の感性やリズムに従うこと、それを大切にすることは、今の社会では難しいことかもしれません。
今、テクノロジーの進歩によって、私たちの仕事のスタイルは大きく変わりつつあります。コミュニケーションはオンラインで瞬時に行われ、物理的な距離は問題ではなくなりました。そしてそれは、もしかすると私たちが「時間」という枠組みから解放されるチャンスかもしれないのです。
時間を守ることが、結果として大切なのは、他者との約束を守り、互いの信頼を築くためです。けれども、その「時間」が人間の本質的な部分、例えば創造性や思考の自由、人間関係の深さを奪ってしまっては、本末転倒ではないでしょうか。
だから、遅刻をすること、そしてそれによって少しの間、社会の厳格なスケジュールから外れることが、時には新しい何かを見つける機会になるかもしれません。遅刻がもたらすその小さな「自由」や「反抗」を、私たちはもっと大切にしてもいいのかもしれないですね。
さて、こうして話している間に、皆さんも自分の時間を持ち寄ってくださって、この場所が「今」を共有する空間になりました。それでは、この共有された時間の中で、これから何を話し合おうか、一緒に考えてみませんか。