”自分の進捗←→他人の進捗”の軸と、”現実の進捗←→架空の進捗”という二つの軸で進捗感について考える
”自分の進捗←→他人の進捗”の軸と、”現実の進捗←→架空の進捗”という二つの軸で進捗感について考える
そして、”**自分の進捗←→他人の進捗**”の軸と、”**現実の進捗←→架空の進捗**”という二つの軸で進捗感について考えると何かが分かるかもしれない。
自分の、かつ現実の進捗感を持って生きるのが一見良さそうだけど、実際にはなかなかそんな映画の主人公みたいな人生を送れる人はいない。
**他人の進捗**を求めるって何じゃ?というと、例えば**スポーツ観戦**とか**選手の応援**なんかは他人の進捗を眺めてる。
**アイドルのファン**なんかも他人の進捗だろう。
他人の進捗の最たるものとしては、自分の**子供の成長**を見守る事だろう。大抵の人が経験する事だ。
子供やスポーツ選手、アイドルは現実に実在してるのだから、架空か現実かで言えば現実だろう。
アニメキャラは現実に存在してないから、アニメの物語は架空の進捗と言えそうだ。
スポーツ観戦をバカにするアニメファンというのは、自分じゃなくて他人の進捗を求める事をバカにしてるのかもしれないが、それで言うとアニメなんか他人の進捗なうえに架空の進捗なんだからもっとバカげてると言われてしまうのではないか?
ただし、アニメや映画というのは観客が感情移入するように慎重に演出されているから、観客は架空の他人事をまるで自分事のように感じさせられてしまっているというトリックがあるわけだ。
では次に、何が現実の進捗で、何が架空なのか?についてもっと考えてみたい。
例えば、大工さんが家を建てて、そこに誰かが住むというのは明らかに現実の進捗という感じがする。一方で、ゲームを遊んでクリアするというのは架空の進捗という感じがする。
アニメや映画は架空かつ他人の進捗だったが、ゲームは架空だけど自分の進捗だと言えるだろう。ただし、ゲームによるかもしれない。ひぐらしはゲームだけど実質小説みたいなもんだから、他人の進捗だ。厳密にはゲームは自分の進捗と他人の進捗のグラデーションだろう。
プレイヤーの好みにもよるが、ゲームをよりゲームらしくしたいなら、他人の進捗というよりも自分の進捗のように感じさせるように作った方がいいかもしれない。例えばRPGのラスボスをバトルじゃなくてイベントデモで勝手に倒してしまうみたいなのはかなりマズいだろう。
ゲームなんか架空の進捗だから、意味がないという人もいるかもしれない。それよりもっと現実で進捗を出せよと言われるかもしれない。
だが、現実はすでにあらかた進捗され尽くした後で、もう何も進捗しようがなくね?という意見もあるかもしれない。戦争直後は日本は焼け野原であり、それは悲しいが、だがある意味いくらでも進歩のために手の付け所があった状態であり、進捗出し放題だったと言える。しかし、今では市立美術館、県立美術館とかあらかた必要なものは建ってしまっており、今さら市長なんかやってもなんかハコモノ建ててキックバックもらって儲ける余地さえない。
現実がまるでクリア後のRPGみたいにもう進捗させようがないんだから、ゲームで架空の進捗に走ったってやむを得ないんじゃないか?
最近では起業家たちの間でも「もう解決すべき課題が見つからねえ」って困ってるらしい。
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