価値観を言語化するにあたって好きなことを思い浮かべる
「私は何が好きなのだろう?」を起点に、
「私が大切にしていること(価値)」を考え、
自らの物事に対する判断基準である「価値観」を言葉にする
という手順。
必ずしもこの手順を踏む必要はない。
思考過程は人それぞれであり、各項が散逸的に言葉になるときの方が多い。
ファシリテーターの思考手順を、他者が行わざるを得ない環境をつくるようなワークショップ設計には注意したい ところで、起点「私は何が好きなのだろう?」に関して、
「歌詞」だけに制限したワークを今日見かけた2024/8/8 受講者の一人から、
「なぜ歌や歌詞だけに限定する必要があるのか?」
という質問が出た。
もっともな質問だと感じる。たとえばお気に入りの演劇のセリフではいけない理由はなにか?
この受講者の質問に、この日明確な返答がなされたようには感じられなかったterang.icon
最終的に、「歌や歌詞でなくともかまわない」ということになったが、あいにくこの空間では既に歌や歌詞からvalue clarificationが行われており、マイノリティとならざるを得ない個人へのケアは行われなかった。 この場では、いまここで浮かび上がる話あるいは話し方に価値がどうも置かれがちだったようだが、非構成的に場を作ることと、準備不足であることはまったく違う。 たとえばプロセス志向心理学にのっとったワールドワークは、何も準備をしていないわけではない。 休憩時、ファシリテーターの方がterang.iconに話しかけれこられた。
他にどうすれば価値観の言語化を促せるだろうか?、と。
返答したことterang.icon
「好きなこと」を言葉にしてもらうワークは、自分もよく使う
選択肢をいくつかもうけることが多い。
選択肢の数は、そのワークショップ全体の中で許される時間次第で変わる。
歌詞以外の好きなこと。例えばを挙げる。
好きな体の動かし方
ステレオタイプだが、歌といえば文化系寄りのイメージがあるため体育会系寄りの問いかけが1つ欲しい
好きな景色
過去行った場所から思い返してもらいたい。頭の中でダイナミックに過去を想起してもらいたいとき採用する。
好きな国もあり。
訪れたことがなくても別にかまわない。
好きな食べ物、飲み物
どこでも誰でも使いやすいと思う
好きなTV番組かYouTubeチャンネル
昔はTV番組で聞いていたが、最近はYouTubeチャンネルも混ぜる
すべての「好きなこと」項目に書いてもらう必要はない
ピンときたものを1つ選んで書く、
あるいはもう少し全体の選択肢数を増やして、その中から2つ選んで書く(3つは多いと経験上思う)
ただし、これらは人格の完成後とみなせる成人を対象にしているから 好きなことは?価値は?価値観は?と問うことが可能
つまりは教育現場における対象は人格未完成の主体に過ぎない。
そこに多様性や創造性があるともし感じるのであれば、それは彼/彼女の家庭や地域を再生産したものに過ぎない
中国語の部屋的な記号操作の結果が現れていると言ってもいいかもしれない その返された言葉は、本当に彼/彼女の価値観なのか?
子の価値観のほとんどは親によって形成されると考えるterang.icon
いくらその子の「本来」「根本」「原点」みたいなことを問うても、家庭や地域以上のことは出てこない。
その家庭性、地域性から切り離し、親世代とは別の人格を与えることが教育の役割
それは知識によって涵養される。グループワークによってではない。
グループワークの様をbehaviorism的に判断すると、その主体が「理解」しているのかどうかは見えてこない。
目を伏せ、俯きがちで、暗い表情でも最高にハッピーな状態もあってかまわない。
「体を動かしてみればわかる」の標語は、1930年代のドイツにおいて、右手を前に掲げればわかると何が違うのだろうか。
behavior(行動、外貌)からわかる心理学だけでは、「オレオレ詐欺者として集団の中で優秀に振る舞える人」もよい評価することになる。彼/彼女らはコミュニケーション力が高く創造性豊かでチームワークに優れる。 教員のコマシラバスと、講義(座学)と、ペーパーテストによって
初めて、教員と、(人格未完成者と法的には想定される)学生とが平等に評価し合える
でないとそこは「学校」ではなく、「職業訓練校」と呼ばざるを得なくなるだろう