「文化を語ること」と「他者と出会うこと」
語りの「型」のようなものを考えている。
文化を始め、言語、歴史、その共同体について考えることは豊かな営みだと考える。必要なことだとも思う。
思うのだけど、「文化を語る」という行為には少なくとも2つの類型があるように感じられる。
1. 文化を、探究の対象として語る
自分にとって未知なものに出会うこと
ときには歴史的な暴力性があるかもしれない
できるだけ正確に理解しようとする態度は、自身の前提を揺さぶる契機ともなる
2. 文化を、自己確認の素材として語る
「私たちは〇〇という人間だ」「(最初から)文化は素晴らしいものである」「自分たちの根底にこの文化がある」
これはアイデンティティを確認し、共有し、強化するための手続きとなる。
今回は、2の方を問題視している。
「精神性」の問題
社会問題があったとしてそれに対して、「精神性を取り戻そう」「本来の文化を思い出そう」「人の心が変われば社会も変わる」といった方向へ議論が向かうことがある。
社会の問題が、個人や共同体の精神性へと回収される語られ方。
制度、歴史、権力関係、経済構造といったものは後景へ退き、「私たちのあり方」の問題へと読み替えられる。
内面そのものではなく、内面を根拠として公共的主張を行うとき、その根拠が検証されにくい。
「私たちはつながりを感じている」という体験の表明に対して、他者は「いいえ、それは間違いです」とは言えない。
私的な体験の告白だから。
また、時に善意によって語られる。
包摂、つながり、次世代、well-being……どれも否定しようのない言葉。
否定しようがないから、「私たち」が誰を含み、誰を含まないのかを覆い隠す。それが善意という内面を吐露しながら語るときにはますますわからなくさせる。
ここには同質性を構築し続ける
さらには、社会を変えるという話が、いつの間にか、「よりよい人間になろう」へと変質する
あるいは権力を、知らず知らずのうちに再生産し続ける
我々は通常、ある主張に権威が伴うとき——この人の言うことには重みがある、信頼できるなど——、その権威がどんな手続きや基準によって正統性を与えられているかを問うことができる。
例えば論理、学歴、職歴の一貫性など。これらはもし不完全であっても、少なくとも公共の場で問い直すことができる。
しかし「豊かな内面」とか「深い精神性」といった類の権威は、この検証を逃れる。
語る根拠を内面に置く限り、「誰が語る資格をもつのか」という問い自体が立てづらくなり、既にそこにある権力構造の維持に寄与することになる。
上で書いた、「1. 文化を、探究の対象として語る」と「2. 文化を、自己確認の素材として語る」の違いは、精神性の問題へと帰着するのではないか。
前者は、他者の存在を必要とする。
自分の理解が常に不完全で、他者の異なる視点によって更新し続けること自体を前提とするから。
後者は他者が、自己確認の契機へと還元される。
あるいは他者がいても、すでにある結論——「ここには素晴らしい文化がある」「私たちには豊かなつながりがある」——を確認し合い、共有し合い、強化し合う。そういう構造を持っており、またその構造からは原理的に逃れられない。
ここには本来の意味での「異論」や、居心地の悪い差異の入り込む余地は最初から無い。
例えばワークショップで対話という言葉を使うとき。
多義的な言葉だからそれぞれ毎に様々な意味を含意するだろう。
とはいえ、本来は、自分と異なる外部(他者の地平)に開かれているはずなのに、実際には閉じた自己や自分たちの確認のための手続きとして機能してしまうことがある。
他者と出会い、語らう場を設計するにあったって、見逃せない観点だと思う。