薔薇寓話19
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◆January/1月
雪が屋根に地上に降りつむ。世界はしずまりかえり、雲のかなたの星辰の、きりきりきしむ音さえ聞こえるようだ。暖炉には炎が燃えているが、室内に放射される熱は、太陽の下でまたたくまにとける淡雪のように、冷ややかな石の壁や床にたちまち吸い取られてしまう‥‥ しみだらけの古い木のテーブルの上に組み立てられた蒸留装置を、ランプの青い火がしずかに熱していた。フラスコの中では、もう長いこと液体の沸騰するコポコポいう音がつづいている。気化された成分は細い管をとおり水中で冷やされて別の瓶の中に音もなくしたたりおちる。最高級のトカイ・ワインのような、黄金色に輝くその精華‥‥。
書き物机の上で古ぼけたラジオが鳴った。「‥‥昨年夏のクーデターを経て、ソビエト社会主義共和国連邦はその歴史を閉じ、新たに独立国家共同体が誕生しました。今日はモスクワから、新生ロシアの正月の様子をお伝えします‥‥」
スネイプは論文から顔をあげ、音量のつまみをひねる。声は遠ざかる。もうソ連もない。二年前のあの秋の、自身はその場に居合わせることのなかったうねりに彼は思いをはせる。革命はプラハでともに学んだ友人たちの身にも大きな変化を及ぼした。その時が来るのを待ちのぞみ、地下活動に従事した者も多い。ある者は時代に迎えられた。だが、別の者たちは相変わらずの厳しい日々を暮らし、密告者であったことを暴かれて破滅した者、消息不明になった者もあるという。プラハの同窓エリアーデの書いてきた手紙ーー「同郷の、ルーマニア出身のやつが、秘密警察の自分の分のファイルを全部読んで、友人のFが密告者だったとわざわざ知らせて寄越した。ご丁寧にもね。やつのファイルがあったんなら、きっと僕のもあるだろう。しかし、見ようとは思わない。一体、近しい友人や家族が自分のことを逐一奴らに知らせていたからって、なぜそんな過去を知っておかなければならないんだ? こちらでは、毎日毎日、実は某は密告者だったとか、そんなニュースばかりだ。H教授の奥さんは、夫に対する弾劾に耐えきれずに自殺した。イギリスにいる君には、きっと想像もつかないだろう。‥‥」
声を抑えられたラジオの向こうで、アナウンサーが今日に至る歴史的経緯を説明している。あたかもあやまてる歴史は終わり、約束された新時代に我々がいるとでもいうように。
スネイプはラジオを切る。目は、ラジオの横のクィディッチの対戦表をとらえる。今年のスリザリンは絶好調だった。ボスニーに率いられたチームは、今年こそ確実に優勝するだろう。ボスニー。スネイプの頬はわずかにゆるむ。彼が才能を見出したこの生徒は、二年のうちに、スリザリンを、固い結束と巧妙きわまる戦術をあわせもった理想のチームに生まれ変わらせた。ボスニー自身は、卒業後のプロ入りがすでに決まっている。
スネイプはふたたび論文に目を落とす。だが、視線は文字を追いたがらない。ーーボスニーにとっては、この二年間は有益なものだった、だがいまだあまりにも多くの問題がスリザリンにのしかかっているーースリザリンにおいてさえ。
彼は首を振り、コーヒーを淹れに立つ。
雪が降る。暖炉の火が時おり爆ぜるのは、この間から住みついた火蜥蜴のこどもが走りまわっているのだ。冷やされた滴は瓶のなかにゆるやかにしたたり、フラスコの沸騰はつづく。蒸留は順調。
プラハの夜を思い出す。狭い、せりだした庇の下をまがりくねって続く古い小路。街のあちこちに刻みこまれ、あるいは吊り下げられた幾多の紋章とそれに秘められたメッセージ。観光客に呼び止められ、なりゆきでガイドに雇われた午後。暮れなずむカレル橋の上で手渡された報酬はドイツ・マルクだった。それはたちまち、友人たちとの飲み代に消えてしまったのだったが。ーーあるいは、この夜のようにしんとしてさむざむしかった研究室。自分は間違った方法を選んでしまったのではないかと疑う、胸の悪くなるような待ち時間。彼は若く、傲慢と焦燥に心臓を喰いあらされ、どこからかおのれを監視しているに違いない視線のことなぞ一顧だにしていないと自分に信じこませるのに必死だった。
わかるとも。エリアーデ。スネイプはコーヒーの底に向かってつぶやく。どこでも、狂気は同じようにふるまうものだ。そして狂気は感染する。
革命はーー高邁な理想に包まれて狂気を産む。勝利もまた、ーー厳正なる裁きが過去のみじめさへの復讐へ転化するのはたやすい。気づいた時は遅いのだ。狂気は日々を裁断し、偏執狂の医師のメスのようにすべてをえぐり出してやむことがない。だが、プレパラートに固定された日常ほど滑稽で現実ばなれしたものがあるだろうか? スネイプは頬をゆがめる。彼もまた、そのおぞましさのうちに幾重にもぬいとめられている。
マグカップを洗いながら、彼は学生時代に暗記したルーン学の教科書の一節を思い出すーー夕方になってから昼をほめるべきだ。死んで焼かれてしまってから女を、ためしてから剣を、嫁にやってから娘を、渡ってから氷を、飲んでしまってから麦酒をほめるべきだ。誰もがそう願うように、彼もまた、幸せなおわりにたどりつくことをのぞむ一人にすぎないのだった。
彼は読みさしの論文を取り上げる。「イゾルデ回路形成作用を有する伝統成分の組合せ」論文の余白はたちまち、魔法薬便覧からの引用で埋めつくされる。無数の固有名詞、無数の矢印とバツ印‥‥。書類立てからつき出して、濃い影をつくっているのはメディチ・マギカ社からの手紙である。すみにひっそりと並ぶくたびれた装丁の十数冊のノートは、プラハ時代から書きためた「闇の感染」の予防と治療に関する膨大な仮説と実験データだ。
火蜥蜴のたてる音がしじまに響く。蒸留の夜は続いている。
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◆"Allegory of Rose" is a fan-fiction of J.K.Rowling's "Harry Potter"series.
◆"Allegory of Rose" was written by Yu Isahaya & Yayoi Makino, illustrated by Inemuri no Yang, with advice of Yoichi Isonokami.
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