言語化によって失われるものがあるものはそもそも存在しない
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難波優輝 / Namba Yuuki (@deinotaton)
言語化によって失われるものがある、というよくある主張にはかなり批判的で、言語化によって失われるようなものは最初からあなたの手元になかったのではないか、と思う。私の経験上、言語化しようとすればするほど、要らないものが捨てられていき、私にとってほんとうの経験が析出されてくるからだ。
別にこれは絵画化でも映像化でも音楽化でも舞踊化でも構わない。私たちは表現を行わなければそもそも何を感じていたのかさえ分からないだろう。表現を行わない以前に感じていたものなど存在しない。存在していると思うのは何かのまやかしだろう。
というか、そもそも、私たちの存在自体が世界を切り取って知覚化し感性化している、という意味でつねに世界は「失われ」続けているのだ。もし何も失いたくないなら私たちは存在してはならなくなる。失う、という馬鹿馬鹿しい言葉遣いをまずやめることで人生に向き合いはじめるべきだ。
言語化すると失われる、という言い方は、いっけん繊細でセンスのある言い方であり、さも世界に配慮しているように見えて、しかし、どこからでもないところからの眺めを欲するような、神の視点を欲する比較的傲慢なもの言いだということに気づいていないのが興味深い。
この「~のが興味深い」という一文の締め方も普遍的な視点を欲した傲慢さではないか?
存在するということは世界とここから結ぼれるということであり、その結ぼれの歴史性、一回性を愛することが私にとって真摯に日々を生きるということである。永遠の中立的な結ぼれを夢見ることも人類には許されているが、私にはその魅力はまったく理解できず、生からあまりにも遊離していると感じる。